大坂の陣を歩こう! 九度山&道明寺散策レポート2
お菓子も食べ終わり、電車が来たので乗車。
(南海線)
九度山12:43発→河内長野13:32着
料金:480円
河内長野駅に着いたら、南海線から近鉄線に乗り換え。
その前に、河内長野駅前が意外と拓けていて散策しようかな?と思ったんですが、どうやら近鉄線の次便がすぐに来るらしく、特に散策もしないままホームへ。
このとき(ヤケに浴衣姿のお嬢さんが多いなぁ…地元の夏祭りかなぁ…)と思ってました。
(近鉄線)
河内長野13:47発→古市14:05着
料金:290円
近鉄の河内長野駅→古市駅の間には、富田林駅と喜志駅があり、もし聖徳太子&妹子の墓を観光する場合はここが最寄り駅になります。
車窓から眺めるとおそらく墓のある場所は山手でしたありがとうございました。
古市駅着。
この時点で分かった。今日はP/Lの花火大会だったらしく、だからやけに人手が多かったんだ…。(lll´Д`)
駅のホームに帰りの切符は混雑するので購入しといてくださいなど、ガクブルな文章の羅列が…。
…暗くなる前に帰るから…大丈夫だよね??
これからの行程

古市駅を出発して、各史跡を回り、道明寺駅まで行こうというもの。
古市駅で昼ご飯でも食べようか…と思ってたんですが、花火大会の影響で駅前は人出が凄いよね。
駅前を避け、各史跡にいく道沿いで良さげな店があればそこで食べよう!と出発する。
まずは誉田八幡宮へ。
本日の天気予報では曇り時々雨…ということだったので、折り畳み傘を携帯。
持ち歩きに重くて(-_-)だったけど、この八幡宮へ向かう途中で小雨が降り出し、お役立ちツールに変化。
えへへっ( ´∀`)σ
しばらく歩いて到着。
またまた裏の南大門から入って来たらしく、…これも一種の才能? Σ(´Д` )ハッ! (ちがいます)
誉田八幡宮


応神天皇を祀る。自称「日本最古の八幡宮」(実際にはもっと後に建立されたものとみられる byウィキ
ここは天皇が幼少の頃に居住されていたところらしい。 by公式HP
応神天皇:第15代天皇。皇祖神や武神として祭られている。祖父は日本武尊。
八幡宮→八幡神を祀る神社(八幡神=応神天皇ではないか?と言われている)
ちなみに源氏の氏神は八幡らしい。だから武士に人気の信仰。
ここも豊臣秀頼が再興、普請奉行に片桐且元コンビでやってます。がんばれ!且元っちゃん!
この日は結婚式がありました。


この石橋を渡ると応神天皇陵らしい。立ち入り禁止だけどね。

…それにしてもこの地域は天皇陵が多いなぁ(電車に乗ってるときも、こんもりとした陵が至る所に見えた
分かりやすい様にマーキングしてみました。

…ぞっ、象の墓場?
土地はいっぱいあるのに、どうして一カ所に固めるんだろうね?
八幡宮散策に戻って、馬の象。
日本書紀の雄略天皇紀に誉田で出会った神馬のエピソードがあるそうです。


そして外せないのが誉田林古戦場。
大坂夏の陣の時、大坂方の薄田隼人正がこの境内に布陣して出撃したが、道明寺付近で戦死。
そして正門より出る!

大鳥居の八幡宮の「八」部分が、鳥が向かい合う様なデザインで可愛い。
正門付近の道路はこんな感じで、おもむきがあって素敵。

ここから次の玉手山公園へ向かうべく10分ほど歩いていると、
しとしと降りだった雨脚が急にキツくなる。
…といってる間にどしゃぶり。


折り畳みの傘も折れそうな酷さなので、とりあえず避難できそうな屋根を探す。こりゃスコールだ。 (lll´Д`)
…そして碓井八坂神社を発見。軒先を借りることに。
避難したのが14時半ごろ。
10分経っても、20分経っても、一向に緩まない嵐。雷もバリバリっと鳴ってる…こりゃ近くに落ちてるな…
叩き付ける様な豪雨だから何時間も続かないだろう…と諦めて、木枠の上に三角座りをして回復を待つ。


ぼーっと座って待ってる時に、屋根のありがたさと、家のありがたさを感じる。
壁一枚あるだけでも全然ちがう。嵐で外はめちゃくちゃ怖いよw
昔の旅人なんかは、山中で嵐にあったら大変だっただろうな、とか、
雨具が笠じゃ着物ヌレヌレじゃん! どうしてたのかしら? とか、
脳内細道ごっこを開催。…うぅぅ、そらくん、雷と大雨…こわいよぉ…(´;ω;`)
結局一時間後、嘘の様にからっと雨が上がる。
時計を見ると15時半か…、まだ日没までは時間あるな(でもご飯を食べてる余裕はないな…)と次へ向かう。
田んぼが水没して、鳥が泳いでる…


右写真はイチジクの畑です。ここも水没。
この近辺はイチジク畑が広がっていて、丁度シーズンらしく凄いイチジクの甘い香りが漂ってました。
石川の河川敷を北へ。(公園へ行く為の東側に渡る橋を探す



雨で増水してエラいことになってます。
ちなみにここ石川は、真田幸村隊と伊達政宗隊が激突した場所だそうです。(by 鉄砲対決
ここより4kmほど北へ行くと八尾。(木村重成、長宗我部盛親vs藤堂高虎、井伊直孝
1615年5月6日。
【八尾・若江方面】の部隊は午前5時着陣、
対井伊(9500)だった木村隊(6000)は激戦の末、本隊壊滅、木村重成が戦死。
対藤堂(5000)だった長宗我部隊(5300)は藤堂隊を壊乱させたが、正午頃、木村隊の敗報が届き、大坂城へ撤退。
※藤堂勢および井伊勢はこの戦闘で大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなった。
※長宗我部盛親は八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅したと考えられる。事実、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかった。
【道明寺方面】先発部隊の一部(後藤隊 2800)は、午前4時、攻撃を仕掛ける。
対する徳川方は水野隊、堀隊、本多隊、松平隊、伊達隊。(計34300)
小松山を巡り激しい銃撃戦を繰り返したが、正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、部隊は壊滅。
【道明寺方面】先発部隊の残り(薄田隊、明石隊、山川隊 計3600)が、正午頃やっと着陣。
薄田は奮戦したが戦死、残りは道明寺よりやや南に移動した【誉田方面】へ撤退。
【誉田方面】で後発部隊の毛利隊、真田隊(計12000)が合流。壊滅部隊の生き残りを吸収する。
徳川方との混戦の後、両軍立て直しの為、膠着状態へ。
午後2時半頃、八尾・若江の敗報と、各隊退却の命令が大坂城から届く。
真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。徳川方は兵の疲弊を理由に追撃はしなかった。
※後藤隊以外の遅参について、濃霧で移動が大幅に遅れた、もともと後藤隊は後続が布陣するまでの捨て駒だった、など諸説がある。
そして翌日の5月7日 天王寺決戦へ。

その真田隊の激戦があった石川を渡り、向かうは玉手山公園(小松山)!
この石川に架かっている玉手橋は鉄製の吊り橋で、国の文化財だそうです。
いざ!玉手山公園! (*`・ω・´)ノ
…と意気込んだはいいが、公園への道は坂道。
てっきり平地にあるもんとばかり思ってたのに…。
平地=近くまで行けばこんもりとした小松山があって分かりやすいのでは!? と思ってたので、案内看板も少なかったので、道があってるのかドキドキしながら進むことに…。
よかった…迷子にならなかった…。
と、公園の入り口に着いたはいいケド、公園内がこれまた急な坂道と階段群。…チーン。


ハァハァと息を切らせながら登るとようやく見えてきたマタベーの碑。
途中で簡易ながら大坂の陣資料館と郷土おもちゃ資料館があったので寄り道。
後藤又兵衛の碑

うぅぅ…またべー… (´;ω;`) ←後藤又兵衛も好き
上に書いた通り、彼は少数で圧倒的大数を相手にこの場所を死守し、そして戦死します。
大坂の陣での戦略の観点から、まず東の徳川方が大坂に入ってくるのに二つの道があり。
それが高槻のある北ルートと、ここ道明寺近辺の南ルート。
ほかは山に囲まれているので、大軍で来ようとすればこの二つしかない。

※Aアイコンは道明寺の位置です
徳川方は河内・大和・紀伊方面より大坂城に迫った為、第一次防衛前線が道明寺ラインとなる。

ここを死守したってよぅ…という気持ちになるが、もうそれは言わないお約束だね。
ここまで来たら最善を尽くすしかない。
そして後藤碑の近くには小林一茶の句碑もあった。
この人も公園内の歴史資料館で少し紹介があったけど、家族に恵まれなかった人生らしい。

大坂の陣の切なさと、小林一茶の悲しさのダブルパンチでへろへろに。
おまけにお腹も空いて、足もしんどいので、お酒を調達。
心底ダウン状態だったので、飲んだら逆にもの凄くハイになりました。

やや浮つきながら石川を再び越えて、16時50分頃に道明寺天満宮着。
道明寺天満宮



もともとは菅原氏・土師氏の祖先に当たり、相撲の祖といわれる野見宿禰の所領地で、土師神社があった。
仏教伝来後、伝承では聖徳太子の発願により土師寺を建立。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばが住んでおり、道真も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ歌もある。 byウィキ
入り口には閉門17時と書いてあった様に思うんですが、既に閉まってました。
…花火大会の影響?
そして天満宮から少し移動して、道明寺に到着。

「道明寺」と「道明寺天満宮」は違うのですか?
1872年までは同じ境内にあったのですが、神仏分離令により移設しました。
天満宮の境内にはその名残として、菩提樹の木と参道跡が残っています。 by公式HPより
17時を越えていたので、もちろん門は閉まっていました。 (´・ω・`)ショボーン

駅前の商店街でおみやげ用に朝もぎの地元産イチジク購入。
道明寺→近鉄阿倍野橋(P/L花火大会用臨時便)
料金:340円
19時前にあべの(天王寺)に着くと、それはもう凄い人。浴衣ゆかたユカタ…どうやら花火の人出らしい。
よかった…巻き込まれずに帰って来れた…
ホッ…と思いながらも、…あそこも行くか!ということで、天王寺決戦の場所も巡ることに。
うん、そうです。あそこです。
行き道にあった堀越神社。

聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営した。 byウィキ
ここでも太子が建てております。…たくさん建てるなぁ。
そして着いたよ、安居神社。

真田幸村終焉の地。
1615年5月7日。
前日の激戦をくぐり抜け道明寺、八尾より引き上げた各部隊は、大坂城に集結する。
天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14500。
岡山口は大野治房ら4600。
別働隊として明石全登300。
全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15000が布陣。
正午頃、火蓋が切られる。
天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。
豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。
絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。
5月7日深夜に大坂城、陥落。
翌日、秀頼は淀殿らとともに勝永に介錯され自害した。
※天王寺合戦は島津家の「薩藩旧記」で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」などと記された。
※ しかし、天王寺・岡山の戦いで活躍したのは、真田信繁だけではなく毛利勝永、大野治房らも活躍している。真田信繁は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、 毛利勝永と大野治房は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させている。また、真田信繁が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因である。
武士には別名が三つある。もののふ・さむらい・つわものである。
「もののふ」は古代の日本の軍事面を担当した一族「物部氏」にちなんだもので、つまり武力をもって国家に奉仕する者であり、
「さむらい(侍)」は「侍う者」の意味で、武力をもって特定の一族(例えば藤原氏)に奉仕する者のこと、
「つわもの」は兵器(うつわ)を扱うことを専門とする者、武器を扱うプロ集団という側面を強調すれば「つわもの(兵)」になる。
…だそうなので、兵(つわもの)=戦い方が巧みだったってこと? 侍(豊臣の従者)ではなく、兵。
私は「真田日本一の兵」の【真田】という言葉の意味の中には、
絶望の中、快進撃を続け、散っていった大坂方各将達…という意味も込められていると思いますが。
最寄り駅への行き道に、(確かこの辺にあったよなぁ…)と記憶を頼りに行ってみたら、あったよ閻魔堂。
小さい頃、ここを通るのが凄く怖かったんだ。うん。

場所は安居神社に面している道路を、そのまま西へ。松屋町筋を渡ったとこにあります。
安居神社より徒歩3分ぐらい。
時間が時間だったので閉まってました。閻魔大王は残業はしないみたい。
最寄り駅に向かう途中、そのまま通天閣にも寄ってみる。


街並はすんごいごちゃごちゃしてます。有名串カツ屋に至っては大行列!
このカオス感も、他県の人が来たら楽しいだろうねv
ここから地下鉄に乗り、九度山&道明寺散策はこれにて終了!
おつかれさまでした。
(南海線)
九度山12:43発→河内長野13:32着
料金:480円
河内長野駅に着いたら、南海線から近鉄線に乗り換え。
その前に、河内長野駅前が意外と拓けていて散策しようかな?と思ったんですが、どうやら近鉄線の次便がすぐに来るらしく、特に散策もしないままホームへ。
このとき(ヤケに浴衣姿のお嬢さんが多いなぁ…地元の夏祭りかなぁ…)と思ってました。
(近鉄線)
河内長野13:47発→古市14:05着
料金:290円
近鉄の河内長野駅→古市駅の間には、富田林駅と喜志駅があり、もし聖徳太子&妹子の墓を観光する場合はここが最寄り駅になります。
車窓から眺めるとおそらく墓のある場所は山手でしたありがとうございました。
古市駅着。
この時点で分かった。今日はP/Lの花火大会だったらしく、だからやけに人手が多かったんだ…。(lll´Д`)
駅のホームに帰りの切符は混雑するので購入しといてくださいなど、ガクブルな文章の羅列が…。
…暗くなる前に帰るから…大丈夫だよね??
これからの行程
古市駅を出発して、各史跡を回り、道明寺駅まで行こうというもの。
古市駅で昼ご飯でも食べようか…と思ってたんですが、花火大会の影響で駅前は人出が凄いよね。
駅前を避け、各史跡にいく道沿いで良さげな店があればそこで食べよう!と出発する。
まずは誉田八幡宮へ。
本日の天気予報では曇り時々雨…ということだったので、折り畳み傘を携帯。
持ち歩きに重くて(-_-)だったけど、この八幡宮へ向かう途中で小雨が降り出し、お役立ちツールに変化。
えへへっ( ´∀`)σ
しばらく歩いて到着。
またまた裏の南大門から入って来たらしく、…これも一種の才能? Σ(´Д` )ハッ! (ちがいます)
誉田八幡宮
応神天皇を祀る。自称「日本最古の八幡宮」(実際にはもっと後に建立されたものとみられる byウィキ
ここは天皇が幼少の頃に居住されていたところらしい。 by公式HP
応神天皇:第15代天皇。皇祖神や武神として祭られている。祖父は日本武尊。
八幡宮→八幡神を祀る神社(八幡神=応神天皇ではないか?と言われている)
ちなみに源氏の氏神は八幡らしい。だから武士に人気の信仰。
ここも豊臣秀頼が再興、普請奉行に片桐且元コンビでやってます。がんばれ!且元っちゃん!
この日は結婚式がありました。
この石橋を渡ると応神天皇陵らしい。立ち入り禁止だけどね。
…それにしてもこの地域は天皇陵が多いなぁ(電車に乗ってるときも、こんもりとした陵が至る所に見えた
分かりやすい様にマーキングしてみました。
…ぞっ、象の墓場?
土地はいっぱいあるのに、どうして一カ所に固めるんだろうね?
八幡宮散策に戻って、馬の象。
日本書紀の雄略天皇紀に誉田で出会った神馬のエピソードがあるそうです。
そして外せないのが誉田林古戦場。
大坂夏の陣の時、大坂方の薄田隼人正がこの境内に布陣して出撃したが、道明寺付近で戦死。
そして正門より出る!
大鳥居の八幡宮の「八」部分が、鳥が向かい合う様なデザインで可愛い。
正門付近の道路はこんな感じで、おもむきがあって素敵。
ここから次の玉手山公園へ向かうべく10分ほど歩いていると、
しとしと降りだった雨脚が急にキツくなる。
…といってる間にどしゃぶり。
折り畳みの傘も折れそうな酷さなので、とりあえず避難できそうな屋根を探す。こりゃスコールだ。 (lll´Д`)
…そして碓井八坂神社を発見。軒先を借りることに。
避難したのが14時半ごろ。
10分経っても、20分経っても、一向に緩まない嵐。雷もバリバリっと鳴ってる…こりゃ近くに落ちてるな…
叩き付ける様な豪雨だから何時間も続かないだろう…と諦めて、木枠の上に三角座りをして回復を待つ。
ぼーっと座って待ってる時に、屋根のありがたさと、家のありがたさを感じる。
壁一枚あるだけでも全然ちがう。嵐で外はめちゃくちゃ怖いよw
昔の旅人なんかは、山中で嵐にあったら大変だっただろうな、とか、
雨具が笠じゃ着物ヌレヌレじゃん! どうしてたのかしら? とか、
脳内細道ごっこを開催。…うぅぅ、そらくん、雷と大雨…こわいよぉ…(´;ω;`)
結局一時間後、嘘の様にからっと雨が上がる。
時計を見ると15時半か…、まだ日没までは時間あるな(でもご飯を食べてる余裕はないな…)と次へ向かう。
田んぼが水没して、鳥が泳いでる…
右写真はイチジクの畑です。ここも水没。
この近辺はイチジク畑が広がっていて、丁度シーズンらしく凄いイチジクの甘い香りが漂ってました。
石川の河川敷を北へ。(公園へ行く為の東側に渡る橋を探す
雨で増水してエラいことになってます。
ちなみにここ石川は、真田幸村隊と伊達政宗隊が激突した場所だそうです。(by 鉄砲対決
ここより4kmほど北へ行くと八尾。(木村重成、長宗我部盛親vs藤堂高虎、井伊直孝
1615年5月6日。
【八尾・若江方面】の部隊は午前5時着陣、
対井伊(9500)だった木村隊(6000)は激戦の末、本隊壊滅、木村重成が戦死。
対藤堂(5000)だった長宗我部隊(5300)は藤堂隊を壊乱させたが、正午頃、木村隊の敗報が届き、大坂城へ撤退。
※藤堂勢および井伊勢はこの戦闘で大きな被害を受け、翌日の天王寺・岡山の戦いの先鋒を辞退せざるをえなくなった。
※長宗我部盛親は八尾の合戦かその後退時に、大損害を受け実質壊滅したと考えられる。事実、翌日の天王寺・岡山の戦いでは盛親は大坂城に留まり、戦闘には参加しなかった。
【道明寺方面】先発部隊の一部(後藤隊 2800)は、午前4時、攻撃を仕掛ける。
対する徳川方は水野隊、堀隊、本多隊、松平隊、伊達隊。(計34300)
小松山を巡り激しい銃撃戦を繰り返したが、正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、部隊は壊滅。
【道明寺方面】先発部隊の残り(薄田隊、明石隊、山川隊 計3600)が、正午頃やっと着陣。
薄田は奮戦したが戦死、残りは道明寺よりやや南に移動した【誉田方面】へ撤退。
【誉田方面】で後発部隊の毛利隊、真田隊(計12000)が合流。壊滅部隊の生き残りを吸収する。
徳川方との混戦の後、両軍立て直しの為、膠着状態へ。
午後2時半頃、八尾・若江の敗報と、各隊退却の命令が大坂城から届く。
真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始。徳川方は兵の疲弊を理由に追撃はしなかった。
※後藤隊以外の遅参について、濃霧で移動が大幅に遅れた、もともと後藤隊は後続が布陣するまでの捨て駒だった、など諸説がある。
byウィキ
そして翌日の5月7日 天王寺決戦へ。
その真田隊の激戦があった石川を渡り、向かうは玉手山公園(小松山)!
この石川に架かっている玉手橋は鉄製の吊り橋で、国の文化財だそうです。
いざ!玉手山公園! (*`・ω・´)ノ
…と意気込んだはいいが、公園への道は坂道。
てっきり平地にあるもんとばかり思ってたのに…。
平地=近くまで行けばこんもりとした小松山があって分かりやすいのでは!? と思ってたので、案内看板も少なかったので、道があってるのかドキドキしながら進むことに…。
よかった…迷子にならなかった…。
と、公園の入り口に着いたはいいケド、公園内がこれまた急な坂道と階段群。…チーン。
ハァハァと息を切らせながら登るとようやく見えてきたマタベーの碑。
途中で簡易ながら大坂の陣資料館と郷土おもちゃ資料館があったので寄り道。
後藤又兵衛の碑
うぅぅ…またべー… (´;ω;`) ←後藤又兵衛も好き
上に書いた通り、彼は少数で圧倒的大数を相手にこの場所を死守し、そして戦死します。
大坂の陣での戦略の観点から、まず東の徳川方が大坂に入ってくるのに二つの道があり。
それが高槻のある北ルートと、ここ道明寺近辺の南ルート。
ほかは山に囲まれているので、大軍で来ようとすればこの二つしかない。
※Aアイコンは道明寺の位置です
徳川方は河内・大和・紀伊方面より大坂城に迫った為、第一次防衛前線が道明寺ラインとなる。
ここを死守したってよぅ…という気持ちになるが、もうそれは言わないお約束だね。
ここまで来たら最善を尽くすしかない。
そして後藤碑の近くには小林一茶の句碑もあった。
この人も公園内の歴史資料館で少し紹介があったけど、家族に恵まれなかった人生らしい。
大坂の陣の切なさと、小林一茶の悲しさのダブルパンチでへろへろに。
おまけにお腹も空いて、足もしんどいので、お酒を調達。
心底ダウン状態だったので、飲んだら逆にもの凄くハイになりました。
やや浮つきながら石川を再び越えて、16時50分頃に道明寺天満宮着。
道明寺天満宮
もともとは菅原氏・土師氏の祖先に当たり、相撲の祖といわれる野見宿禰の所領地で、土師神社があった。
仏教伝来後、伝承では聖徳太子の発願により土師寺を建立。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばが住んでおり、道真も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ歌もある。 byウィキ
入り口には閉門17時と書いてあった様に思うんですが、既に閉まってました。
…花火大会の影響?
そして天満宮から少し移動して、道明寺に到着。
「道明寺」と「道明寺天満宮」は違うのですか?
1872年までは同じ境内にあったのですが、神仏分離令により移設しました。
天満宮の境内にはその名残として、菩提樹の木と参道跡が残っています。 by公式HPより
17時を越えていたので、もちろん門は閉まっていました。 (´・ω・`)ショボーン
駅前の商店街でおみやげ用に朝もぎの地元産イチジク購入。
道明寺→近鉄阿倍野橋(P/L花火大会用臨時便)
料金:340円
19時前にあべの(天王寺)に着くと、それはもう凄い人。浴衣ゆかたユカタ…どうやら花火の人出らしい。
よかった…巻き込まれずに帰って来れた…
ホッ…と思いながらも、…あそこも行くか!ということで、天王寺決戦の場所も巡ることに。
うん、そうです。あそこです。
行き道にあった堀越神社。
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営した。 byウィキ
ここでも太子が建てております。…たくさん建てるなぁ。
そして着いたよ、安居神社。
真田幸村終焉の地。
1615年5月7日。
前日の激戦をくぐり抜け道明寺、八尾より引き上げた各部隊は、大坂城に集結する。
天王寺口は真田信繁、毛利勝永など14500。
岡山口は大野治房ら4600。
別働隊として明石全登300。
全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15000が布陣。
正午頃、火蓋が切られる。
天王寺・岡山合戦は戦国の世最大にして最後の戦いであり、これまでに例を見ない兵力と火力が集中し、大激戦となった。
豊臣軍は多くの将兵を失って午後三時頃には壊滅。
絶望的な状況の中、唯一戦線を維持し続けた毛利勝永の指揮により、豊臣軍は城内に総退却した。
5月7日深夜に大坂城、陥落。
翌日、秀頼は淀殿らとともに勝永に介錯され自害した。
※天王寺合戦は島津家の「薩藩旧記」で「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」などと記された。
※ しかし、天王寺・岡山の戦いで活躍したのは、真田信繁だけではなく毛利勝永、大野治房らも活躍している。真田信繁は徳川軍の中を敵中突破しただけであり、 毛利勝永と大野治房は、自軍の数倍もの徳川軍に正面から当たり、壊滅させている。また、真田信繁が強行突破できたのは、快進撃を続けていた毛利勝永隊に徳川軍が集中していたのも一因である。
byウィキ
武士には別名が三つある。もののふ・さむらい・つわものである。
「もののふ」は古代の日本の軍事面を担当した一族「物部氏」にちなんだもので、つまり武力をもって国家に奉仕する者であり、
「さむらい(侍)」は「侍う者」の意味で、武力をもって特定の一族(例えば藤原氏)に奉仕する者のこと、
「つわもの」は兵器(うつわ)を扱うことを専門とする者、武器を扱うプロ集団という側面を強調すれば「つわもの(兵)」になる。
byぐーぐる先生
…だそうなので、兵(つわもの)=戦い方が巧みだったってこと? 侍(豊臣の従者)ではなく、兵。
私は「真田日本一の兵」の【真田】という言葉の意味の中には、
絶望の中、快進撃を続け、散っていった大坂方各将達…という意味も込められていると思いますが。
最寄り駅への行き道に、(確かこの辺にあったよなぁ…)と記憶を頼りに行ってみたら、あったよ閻魔堂。
小さい頃、ここを通るのが凄く怖かったんだ。うん。
場所は安居神社に面している道路を、そのまま西へ。松屋町筋を渡ったとこにあります。
安居神社より徒歩3分ぐらい。
時間が時間だったので閉まってました。閻魔大王は残業はしないみたい。
最寄り駅に向かう途中、そのまま通天閣にも寄ってみる。
街並はすんごいごちゃごちゃしてます。有名串カツ屋に至っては大行列!
このカオス感も、他県の人が来たら楽しいだろうねv
ここから地下鉄に乗り、九度山&道明寺散策はこれにて終了!
おつかれさまでした。
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