旅行:2008.12.24 関ヶ原(下)
さーて、さてさて、お立ち会い。
最後は、この戦、最大の「ピエロ」が登場だよ。
この悲しきピエロの物語を、とくとご覧アレ…
さーて、さてさて、お立ち会い。
最後は、この戦、最大の「ピエロ」が登場だよ。
この悲しきピエロの物語を、とくとご覧アレ…
… 刑部の陣跡の傍は、線路(米原〜名古屋間)が通っている訳ですよ。
し か も! 障害物(遮蔽物)がない…。
マップでいえば『ここを直進!』って感じで、絵が書いてあるしぃ…
ここを逃すと、だーいぶ遠回りしないと、向こう側へ行けない。
何か注意書きあるかな…?と周りを見るも、何もなく、
超・電車に気をつけて、渡ることに…(電気が通ってるかもだから、線路も触らんように)
渡った先の鳥居の麓に「渡らないでください」看板あったよ… OTZ
少し歩くと、この先に「中山道」の広い道路が東西に延びています。
先ほどの藤古川も、引き続き流れてマス。
関の藤川(藤古川)
この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。
壬申の乱(六七二)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。 関ヶ原町
この川沿いに着陣していたのが、脇坂、朽木、小川、赤座の4将だな。
関ヶ原関連の小説にもこの地名がよく出てくるので、通り過ぎた時代に思いを馳せるのデス。うん。
そして、その先をドンドン南下していけば、脇坂陣跡… な ん で す が、
新/幹/線 が通っていて(勿論金網封鎖空間)、突っ切れない…。
向こう側への出入り口は、だいぶと駅よりに迂回することに…。脇坂が遠いよ…。 (;´Д`)ハァハァ
南側への道を探してうろうろしていると、着いちゃいましたよ。福島陣跡。
福島正則陣跡
東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。
一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。 関ヶ原町
福島軍は、三成(北部戦線)より遠ーく離れて、中央及び南部戦線の対応なんだな。
歩いてみると、すごく実感(苦笑)。よ〜くわかったよ。
福島陣の傍にあるのが、春日神社と樹齢800年の大杉。月見の名所…らしい。
この戦のときも、既にあったのな。
福島にしては、似合わない組合せ〜。
信心深い人だったのか、もしくは、自軍の位置の目印に丁度よかったのか。
戦場で大半を過ごしてきた人だから、リアリストだろうし、後者…かなぁ。
だいぶ遠回りをして、新幹線の高架をくぐって、高速道路を突っ切って、
やっと着いたよ…、脇坂の陣跡。(;´Д`)ハァハァ
脇坂安治陣跡
安治は関ヶ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賤ヶ岳七本槍の一人として名をあげた武将でした。
東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に、先頭をきって躍り込んでいったのです。 関ヶ原町
ここに、後の東軍寝返り4隊がいたのだね。
…っていうか、もう既に、足痛い…というかおかしい。 ( ゚Д゚) ・∵.ブハァ
とっ、とりあえず、時間もあるし、(この時点で13時過ぎ)
近くまで…行くだけ行ってみよう! …と一路、松尾山へ。(ちょっ! これ、佐和山フラグ)
敦賀もそうだったんですが、ここにも柿の木が、無造作にたくさんあるのね。
実がなっても、放置プレイっていう。 (形状から渋柿みたいですが)
柿 っ て、 田 舎 で は、 雑 草 み た い な も ん な ん で す か ?
13時20分ごろ、松尾山麓着。
どうするって? ここまできたら、行くっきゃねーだろ。(やっぱり)
ここまで来るのにも、結構、歩いたのよぉ?(写真はないケド)
柿の木やら、ススキ畑を超えてきたさぁ!
延々と歩いて、やがてポツンと見えては、また歩く、小早川旗の歩行ラリー。
麓には駐車場があるッス。
その看板には、山頂まで徒歩40分。・・・。
山道に入っても、勾配が緩やかで、横手には小川のせせらぎが。
しかも! 砂利で固めたりキチンと舗装されてます。(道幅も2〜3mはあるヨ)
まぁここから、延々、えんえん、歩くんだけどね。
しんどさ的(メンタルも含)には、佐和山よりマシかも…。
麓の時点で、私の足がボロボロでなければ、すいすい行けたんだけどね。
あーるく、あるく♪
のーぼる、のぼるぅ♪
…30分程、緩やかな道を登っていって、やがて見えた標識は、
「この先頂上まで、徒歩30分」
えぇぇぇーーっ! (;´Д`)l \ァ l \ァ l \ァ l \ァ
(結局、登りだけで1時間強だった訳ですが…)
この標識後は、土を舗装した階段が多くなる。しかもその段が、膝まである位、高低差が大きい。
…ここで本日初めて、旅人とすれ違ったよ。なぜこの地で。
(結局出会ったのはこの人だけデシタ)
登ったら休憩だぁぁ!!! と心を奮い立たせて、登りきる!
(ここまで来たケド、やっぱ佐和山といい勝負だな… 佐和山の、あの獣道を延々もキツイ)
華麗に、着 陣 !
松尾山城(長亭軒)史
応永年間(一三九四〜一四二八)小守護富島氏城を築く(築城史料初見)
永禄十二年(一五六九)信長に帰属
元亀元年(一五七〇)浅井長政修築
天正元年(一五七三)信長、浅井氏討伐後不破光治を警備に当たらせる
天正四年(一五七六)境城の使命終る
天正七年(一五七九)廃城
慶長五年(一六〇〇)秀秋陣所とする 関ヶ原町
小早川秀秋陣跡
秀秋は西軍として、一万五千の兵を率いてここ松尾山に出陣して来ました
朝から傍観を続けた秀秋は、家康に催促鉄砲を打ち込まれ、遂に意を決して友軍の大谷隊を攻め滅ぼしました。
東西両軍の懇願に、秀秋は複雑な事情のなかで悩み抜いた挙げ句の果て、豊臣家に反旗をひるがえしてしまい、東軍を勝利に導いたのです。 関ヶ原町
「松尾山城」の看板もあったヨ!
どうやらここには、当時、城郭跡があったらしい。
それを利用したのだな。じゃないと1万を超す大群を収容できないもんね。
んで『小早川秀秋陣跡』看板の、ドアップ。
皆さん、気づかれましたか?
「催促鉄砲を打ち込まれ〜」のフリガナ=「ぶちこまれ」w (;´Д`)ハァハァ
文章的にも結構アレなんだけど、
・・・まぁ、あれこれ置いときまして(苦笑)。
松尾山よりの全景。写真中央部が、刑部の陣の辺り。
右にスライドして、矢印が三成の陣。
もう少し右にスライドして、戦場の主戦場をば。
笹尾山の解説版は、結構イタズラで痛んでいたケド、こっちは綺麗ダヨ。
ここで14時半ごろ。折角なのでしばらく休憩することに。弁当じゃーーっ!w
残りのおにぎりとお茶を飲み食いし、ぼーっとしながら景色を眺める。
ここで秀秋は見てたんだよな…、
登山して体感したケド、山頂付近にいたのは、大将及び重役周り関連だけで、
1兵卒達は、中腹から麓にいたんだろなぁ…、なんて。
正直、山頂は戦線との距離が あ り 過 ぎ る。
1万人強を収容するとなると、スペースもたくさんいるしね。
裏切りの4隊…というケド、味方だった大群が自分たちに向かってきて、
もう現場がパニックになったんじゃないかなぁ、と。集団恐慌というか。
戦で将が最も恐れるのが、敵の攻撃ではなく「群集心理のパニック」だというし。
その時流のうねりに、西も東も何もかも、…飲み込まれたのだとオモ。
書状で通じてた、とか、確約だった、とか、
後のあれこれは、腹に落とす為の単なる「行為に対する理由付け」なだけな気がするんだ。うん。
さぁってと、帰りますよ…っと。
山頂付近の階段は段差がキツいので、降りつつ、脳がゆれゆれで、途中まではキツいんだけど、
それを過ぎれば、らっくちーん! (・∀・)v
登りは1時間強、下りは30分でした。
駅までの道にあった藤堂の陣跡。ちなみに学校の敷地内です。
すんません、すぐ出ますんで…ヽ(;´Д`)ノ
藤堂高虎/京極高知陣跡
藤堂・京極隊は、ここ中山道の南に位置する柴井に陣し、松尾山や山中村などの西軍に備えました。
ところが小早川隊の寝返りで戦況は一変したのです。大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真っ只中へ、本両隊が突入し、これに呼応した脇坂隊らの攻勢も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。 関ヶ原町
もうこれで、関ヶ原主戦線の大体は見たな…ということで、
最後にたどり着いたのが、西軍の旗達がたなびく場所、西首塚です。
こちらも、合戦で死んだ兵士が葬られているそうです。
…ここまで来た私も、足をだいぶ引きずってるので、敗残兵みたいだ。 ふふっ。
ということで、土産物も何も買わず(店が開いてない)、
15時54分発の米原行きに乗り、そこから【JR北陸本線/新快速/播州赤穂行】に乗って、
大阪へ向かって帰りましたとさ。まる。
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