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旅行:2008.12.24 関ヶ原(中)

次ぃ?
お次は…

王道を歩んで来た男の没落と、
全てを拒んで、中立であり続けた男と、
味方の裏切りで死んだ、盲目の男の話さ…


…えっと、どこまででしたっけ??

そうそう、
笹尾山をイライラしながら下山し、次の陣所に向かいます。
あ、歴史民俗資料館が開いているならば、レンタサイクルが借りれますよ。超便利。

今回は、がっちり自転車借りる気で来たんですけど…ねぇ…(遠い目)。うん。

結果、当時の人と同じく、…徒歩です。…歩行(かち)です。 (;´ρ`)



向かうは、島津の陣所。
田んぼの脇道やら、舗装道路を突き進み、密林地帯へ向かっていきます。
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島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代までに語りつがれる「敵中突破」なのです。 関ヶ原町


はいっ!「敵中突破」や「鬼島津」、「ステガマリ」の島津陣ですよ!
とんでもない戦上手。薩摩隼人といわれる勇敢な武士達。
義弘の為に、島津の兵達はそれぞれ遥か薩摩から具足を携えて、自費で歩いて来る訳ですよ。(by小説より)
凄い…カッキーです!! (シロモチ病)



嬉しい気分で島津の陣を後にし、次へ…
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しばらくすると、様々な旗がたなびく場所が…
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開戦地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊におくれまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(標柱の位置は北寄りに移動) 関ヶ原町


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もう…結構疲れて来ましたよ、っと。(笹尾山でだいぶ体力消耗)

次は…この二人。
あなたなら、どっちにいきますか?
えーーっ、小西はいっかー。…なんてね。
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田んぼの脇道の様な、細い通路を歩き続け、前方に出現した駐車場に、小西の陣跡。


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小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦しました。
午前八時ごろ、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本田隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは午後一時過ぎのことでした。 関ヶ原町



その後、宇喜多の坊っちゃんトコまで、約1kmですか…。

標識とマップで確認しながら進むと、しばらくすると見え始める、こんもりとした、山。
まっ、まさか、宇喜多の坊っちゃん、三成化…してないよね?  Σ(||゚Д゚)
高いトコ、好きじゃないよね??

違 い ま し た 。(良かった〜、ふぅ〜)
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山登りはせず、平坦な林道を抜けていきます。

…っていうか、ここですよね? あるサイトさんが例のレポしてたの!
うふふっ。(心霊スポットらしいよ)

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宇喜多秀家陣跡
注)宇喜多の坊っちゃんは、この戦で死んでませんよー。この後、オニの様に長生きしますよー。
…碑というか、なんだか立派すぎて墓っぽいねw



ウキタ心霊スポット?を何事もなく過ぎ、
続いていくは、ここしかないでしょ、刑部関連!
ここも約1kmですか…。
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宇喜多から続いて来た様な林道を抜け、ドンドン進んでいきます。

途中あるのは藤古川ダムです。
彦根城級の鬼畜勾配な階段を上下し、川を超えて、いよいよ刑部の陣地へ足を踏み入れます。
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藤川台
藤古川(関の藤川)の右岸に位置している、この川岸の上を藤川台と称します。地形が平で、やや高いところからその名があります。
此所に大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、小早川隊等との壮絶な死闘を展開しました。
大谷隊が最初陣した宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、地形をうまく生かした陣の構築跡が見られます。 関ヶ原町




まずは、為広さんの碑に到着!
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平塚為広の碑
合戦当時垂井城主(一万二千石)だった為広は、吉隆(吉継)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。
平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦降りは目覚ましかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の壊滅を見極めた為広は、辞世の句を打ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。
それを碑裏に留めたのは子孫定二郎です。 関ヶ原町


ここでちょうど12時になりました。
合戦当日、裏切り直前の、奮闘していた時間ですね。



為広さんの碑から道路を挟んで、これから山の中に入っていく訳ですよ。うん。
ここも…キツかった…。思ってたより、長い、長い…。傾斜もあるしね。

この時点で、半袖Tシャツ一枚でよいくらい暑かった!!
うおぉぉ!コート脱ぎたい!!(でも荷物になるから、肩に羽織る感じで)
マフラー外して、これも羽織る。(全体的にゴットファーザーみたいなカッコになったw)

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進みます。

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進みます。進みます。

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進みます。進みます。進みます…



…ちらちらと見えている、あの旗はー!!!
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刑部ぅぅぅぅ!!(やっと着いたー!)ヽ(`Д´)ノ

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大谷吉隆(吉継)墓
吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束ここ宮上に出陣してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
これは敵方藤堂家が建てたものです。 関ヶ原町



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湯浅の五助と一緒に墓が並んでました。(左:五助、右:刑部)

…っていうか、何故、刑部関連がこの場所なんだろ? ここが最終の陣跡??
首なし胴体があった場所…じゃないよね?


近くに藤堂家が立てたらしい碑があります。
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裏面には碑文が。
現物見ても薄かったんで無理だと思ったんだケド、やっぱ写真にも写らんかったなぁ。
要約すると「負けること知ってたケド、三成との友誼の為、そして豊臣家への忠誠の為、死を覚悟して戦に挑む。素晴らしい、これぞ武士道うぅ!」…って感じ。
ちなみにこの碑が立てられたのが、昭和15年って書いてあったと思う。(んで、碑の前面の筆跡が藤堂伯爵筆だったと)
墓の方は、刑部が明治時代で、五助が大正時代…だっけか(裏をのぞいた)。

…意外と、最近なんだよね(苦笑)。
江戸時代よりあったのを、ボロいので立て直したのかなぁ?
それともその時代からフューチャーされたのかなぁ?



ここで少しだけお茶補給タイムをし、出発。
次は、刑部が最初に布陣した場所へ!
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・・・また、長い行軍なんですけどね。
獣道じゃないダケ、マシか…。 …熊は出るそうだケドw(by看板)



・・・着きましたぞぅ〜! (☆∀☆)
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大谷吉隆(吉継)陣跡
親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。
九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。 関ヶ原町



最初の陣地ですよね。ここ。

看板にある様に、「古来山中城といわれるくらいの要害の地」ってことを知ってて此所に着陣したのなら、
やはり為広さんの知恵なんじゃないかと。
為広さん、この近くの垂井の城主だし。地形を深く知ってても、おかしくないじゃん?
逆に刑部一人の力なら、知らない土地で眼も見えないのにここまでは、さすがに難しいんじゃないか…と思う。(空堀もたくさん作ってたらしいし…)
村の郷士が率先して、支援や案内してるってことでも、この付近を治める者として、手回しだったり、
村人から尊敬・知己があったりしたんじゃないかな? …って思う。

それにしても、ここで2週間近く待ったんだねw
西軍の陣造りもしたそうだし、裏方進行ですか、刑部。


陣跡のスグ近くに、神社があります。
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刑部の陣跡で、二回目の休憩。そこでおにぎり1つを食べる。
(はぁ〜〜)と思いを馳せながら休憩していると、
ガサッ、ガサッ、っと前方に通り過ぎる複数の陰が。…そうえいば、熊注意の看板…(゚Д゚;)
じっとしばらくしてると、また、ガサッ、ガサッ、と中型犬っぽい大きさのが横切る。
 Σ(´д`;) どきどきどきどき…

逃げよう…と神社の陰に隠れた時、もう一匹ガサッ。そいつが立ち止まった時、目が合って…

・・・・・・猿うぅぅ!!! ヽ(;´Д`)ノハァハァハァハァ

秀吉様達の御通りでした。はぁ〜よかった〜。



十分休憩したので、次の陣へ。
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ちなみにこの神社は、関ヶ原行きの線路沿いにありますので、
列車内からこんな風に見れますよ。(*´д`*)


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