旅行:2008.12.24 関ヶ原(下)
さーて、さてさて、お立ち会い。
最後は、この戦、最大の「ピエロ」が登場だよ。
この悲しきピエロの物語を、とくとご覧アレ…
さーて、さてさて、お立ち会い。
最後は、この戦、最大の「ピエロ」が登場だよ。
この悲しきピエロの物語を、とくとご覧アレ…
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… 刑部の陣跡の傍は、線路(米原〜名古屋間)が通っている訳ですよ。
し か も! 障害物(遮蔽物)がない…。
マップでいえば『ここを直進!』って感じで、絵が書いてあるしぃ…
ここを逃すと、だーいぶ遠回りしないと、向こう側へ行けない。
何か注意書きあるかな…?と周りを見るも、何もなく、
超・電車に気をつけて、渡ることに…(電気が通ってるかもだから、線路も触らんように)
渡った先の鳥居の麓に「渡らないでください」看板あったよ… OTZ
少し歩くと、この先に「中山道」の広い道路が東西に延びています。
先ほどの藤古川も、引き続き流れてマス。
関の藤川(藤古川)
この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。
壬申の乱(六七二)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ヶ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。
またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。 関ヶ原町
この川沿いに着陣していたのが、脇坂、朽木、小川、赤座の4将だな。
関ヶ原関連の小説にもこの地名がよく出てくるので、通り過ぎた時代に思いを馳せるのデス。うん。
そして、その先をドンドン南下していけば、脇坂陣跡… な ん で す が、
新/幹/線 が通っていて(勿論金網封鎖空間)、突っ切れない…。
向こう側への出入り口は、だいぶと駅よりに迂回することに…。脇坂が遠いよ…。 (;´Д`)ハァハァ
南側への道を探してうろうろしていると、着いちゃいましたよ。福島陣跡。
福島正則陣跡
東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。
一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。 関ヶ原町
福島軍は、三成(北部戦線)より遠ーく離れて、中央及び南部戦線の対応なんだな。
歩いてみると、すごく実感(苦笑)。よ〜くわかったよ。
福島陣の傍にあるのが、春日神社と樹齢800年の大杉。月見の名所…らしい。
この戦のときも、既にあったのな。
福島にしては、似合わない組合せ〜。
信心深い人だったのか、もしくは、自軍の位置の目印に丁度よかったのか。
戦場で大半を過ごしてきた人だから、リアリストだろうし、後者…かなぁ。
だいぶ遠回りをして、新幹線の高架をくぐって、高速道路を突っ切って、
やっと着いたよ…、脇坂の陣跡。(;´Д`)ハァハァ
脇坂安治陣跡
安治は関ヶ原の戦い当時は洲本城主で、かつて賤ヶ岳七本槍の一人として名をあげた武将でした。
東軍に通じていた安治にとって、小早川の裏切りは願っても無いことでした。しかも東軍が優勢に転じる頃合いを見計らい、みずから槍を振るい、大谷隊の側面に、先頭をきって躍り込んでいったのです。 関ヶ原町
ここに、後の東軍寝返り4隊がいたのだね。
…っていうか、もう既に、足痛い…というかおかしい。 ( ゚Д゚) ・∵.ブハァ
とっ、とりあえず、時間もあるし、(この時点で13時過ぎ)
近くまで…行くだけ行ってみよう! …と一路、松尾山へ。(ちょっ! これ、佐和山フラグ)
敦賀もそうだったんですが、ここにも柿の木が、無造作にたくさんあるのね。
実がなっても、放置プレイっていう。 (形状から渋柿みたいですが)
柿 っ て、 田 舎 で は、 雑 草 み た い な も ん な ん で す か ?
13時20分ごろ、松尾山麓着。
どうするって? ここまできたら、行くっきゃねーだろ。(やっぱり)
ここまで来るのにも、結構、歩いたのよぉ?(写真はないケド)
柿の木やら、ススキ畑を超えてきたさぁ!
延々と歩いて、やがてポツンと見えては、また歩く、小早川旗の歩行ラリー。
麓には駐車場があるッス。
その看板には、山頂まで徒歩40分。・・・。
山道に入っても、勾配が緩やかで、横手には小川のせせらぎが。
しかも! 砂利で固めたりキチンと舗装されてます。(道幅も2〜3mはあるヨ)
まぁここから、延々、えんえん、歩くんだけどね。
しんどさ的(メンタルも含)には、佐和山よりマシかも…。
麓の時点で、私の足がボロボロでなければ、すいすい行けたんだけどね。
あーるく、あるく♪
のーぼる、のぼるぅ♪
…30分程、緩やかな道を登っていって、やがて見えた標識は、
「この先頂上まで、徒歩30分」
えぇぇぇーーっ! (;´Д`)l \ァ l \ァ l \ァ l \ァ
(結局、登りだけで1時間強だった訳ですが…)
この標識後は、土を舗装した階段が多くなる。しかもその段が、膝まである位、高低差が大きい。
…ここで本日初めて、旅人とすれ違ったよ。なぜこの地で。
(結局出会ったのはこの人だけデシタ)
登ったら休憩だぁぁ!!! と心を奮い立たせて、登りきる!
(ここまで来たケド、やっぱ佐和山といい勝負だな… 佐和山の、あの獣道を延々もキツイ)
華麗に、着 陣 !
松尾山城(長亭軒)史
応永年間(一三九四〜一四二八)小守護富島氏城を築く(築城史料初見)
永禄十二年(一五六九)信長に帰属
元亀元年(一五七〇)浅井長政修築
天正元年(一五七三)信長、浅井氏討伐後不破光治を警備に当たらせる
天正四年(一五七六)境城の使命終る
天正七年(一五七九)廃城
慶長五年(一六〇〇)秀秋陣所とする 関ヶ原町
小早川秀秋陣跡
秀秋は西軍として、一万五千の兵を率いてここ松尾山に出陣して来ました
朝から傍観を続けた秀秋は、家康に催促鉄砲を打ち込まれ、遂に意を決して友軍の大谷隊を攻め滅ぼしました。
東西両軍の懇願に、秀秋は複雑な事情のなかで悩み抜いた挙げ句の果て、豊臣家に反旗をひるがえしてしまい、東軍を勝利に導いたのです。 関ヶ原町
「松尾山城」の看板もあったヨ!
どうやらここには、当時、城郭跡があったらしい。
それを利用したのだな。じゃないと1万を超す大群を収容できないもんね。
んで『小早川秀秋陣跡』看板の、ドアップ。
皆さん、気づかれましたか?
「催促鉄砲を打ち込まれ〜」のフリガナ=「ぶちこまれ」w (;´Д`)ハァハァ
文章的にも結構アレなんだけど、
・・・まぁ、あれこれ置いときまして(苦笑)。
松尾山よりの全景。写真中央部が、刑部の陣の辺り。
右にスライドして、矢印が三成の陣。
もう少し右にスライドして、戦場の主戦場をば。
笹尾山の解説版は、結構イタズラで痛んでいたケド、こっちは綺麗ダヨ。
ここで14時半ごろ。折角なのでしばらく休憩することに。弁当じゃーーっ!w
残りのおにぎりとお茶を飲み食いし、ぼーっとしながら景色を眺める。
ここで秀秋は見てたんだよな…、
登山して体感したケド、山頂付近にいたのは、大将及び重役周り関連だけで、
1兵卒達は、中腹から麓にいたんだろなぁ…、なんて。
正直、山頂は戦線との距離が あ り 過 ぎ る。
1万人強を収容するとなると、スペースもたくさんいるしね。
裏切りの4隊…というケド、味方だった大群が自分たちに向かってきて、
もう現場がパニックになったんじゃないかなぁ、と。集団恐慌というか。
戦で将が最も恐れるのが、敵の攻撃ではなく「群集心理のパニック」だというし。
その時流のうねりに、西も東も何もかも、…飲み込まれたのだとオモ。
書状で通じてた、とか、確約だった、とか、
後のあれこれは、腹に落とす為の単なる「行為に対する理由付け」なだけな気がするんだ。うん。
さぁってと、帰りますよ…っと。
山頂付近の階段は段差がキツいので、降りつつ、脳がゆれゆれで、途中まではキツいんだけど、
それを過ぎれば、らっくちーん! (・∀・)v
登りは1時間強、下りは30分でした。
駅までの道にあった藤堂の陣跡。ちなみに学校の敷地内です。
すんません、すぐ出ますんで…ヽ(;´Д`)ノ
藤堂高虎/京極高知陣跡
藤堂・京極隊は、ここ中山道の南に位置する柴井に陣し、松尾山や山中村などの西軍に備えました。
ところが小早川隊の寝返りで戦況は一変したのです。大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真っ只中へ、本両隊が突入し、これに呼応した脇坂隊らの攻勢も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていったのです。 関ヶ原町
もうこれで、関ヶ原主戦線の大体は見たな…ということで、
最後にたどり着いたのが、西軍の旗達がたなびく場所、西首塚です。
こちらも、合戦で死んだ兵士が葬られているそうです。
…ここまで来た私も、足をだいぶ引きずってるので、敗残兵みたいだ。 ふふっ。
ということで、土産物も何も買わず(店が開いてない)、
15時54分発の米原行きに乗り、そこから【JR北陸本線/新快速/播州赤穂行】に乗って、
大阪へ向かって帰りましたとさ。まる。
旅行:2008.12.24 関ヶ原(中)
次ぃ?
お次は…
王道を歩んで来た男の没落と、
全てを拒んで、中立であり続けた男と、
味方の裏切りで死んだ、盲目の男の話さ…
次ぃ?
お次は…
王道を歩んで来た男の没落と、
全てを拒んで、中立であり続けた男と、
味方の裏切りで死んだ、盲目の男の話さ…
…えっと、どこまででしたっけ??
そうそう、
笹尾山をイライラしながら下山し、次の陣所に向かいます。
あ、歴史民俗資料館が開いているならば、レンタサイクルが借りれますよ。超便利。
今回は、がっちり自転車借りる気で来たんですけど…ねぇ…(遠い目)。うん。
結果、当時の人と同じく、…徒歩です。…歩行(かち)です。 (;´ρ`)
向かうは、島津の陣所。
田んぼの脇道やら、舗装道路を突き進み、密林地帯へ向かっていきます。
島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道をおさえるため、ここ小池村に陣をかまえました。
西軍がことごとく敗退するなかで、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代までに語りつがれる「敵中突破」なのです。 関ヶ原町
はいっ!「敵中突破」や「鬼島津」、「ステガマリ」の島津陣ですよ!
とんでもない戦上手。薩摩隼人といわれる勇敢な武士達。
義弘の為に、島津の兵達はそれぞれ遥か薩摩から具足を携えて、自費で歩いて来る訳ですよ。(by小説より)
凄い…カッキーです!! (シロモチ病)
嬉しい気分で島津の陣を後にし、次へ…
しばらくすると、様々な旗がたなびく場所が…
開戦地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊におくれまいと、島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(標柱の位置は北寄りに移動) 関ヶ原町
もう…結構疲れて来ましたよ、っと。(笹尾山でだいぶ体力消耗)
次は…この二人。
あなたなら、どっちにいきますか?
えーーっ、小西はいっかー。…なんてね。
田んぼの脇道の様な、細い通路を歩き続け、前方に出現した駐車場に、小西の陣跡。
小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦しました。
午前八時ごろ、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本田隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは午後一時過ぎのことでした。 関ヶ原町
その後、宇喜多の坊っちゃんトコまで、約1kmですか…。
標識とマップで確認しながら進むと、しばらくすると見え始める、こんもりとした、山。
まっ、まさか、宇喜多の坊っちゃん、三成化…してないよね? Σ(||゚Д゚)
高いトコ、好きじゃないよね??
違 い ま し た 。(良かった〜、ふぅ〜)
山登りはせず、平坦な林道を抜けていきます。
…っていうか、ここですよね? あるサイトさんが例のレポしてたの!
うふふっ。(心霊スポットらしいよ)
宇喜多秀家陣跡
注)宇喜多の坊っちゃんは、この戦で死んでませんよー。この後、オニの様に長生きしますよー。
…碑というか、なんだか立派すぎて墓っぽいねw
ウキタ心霊スポット?を何事もなく過ぎ、
続いていくは、ここしかないでしょ、刑部関連!
ここも約1kmですか…。
宇喜多から続いて来た様な林道を抜け、ドンドン進んでいきます。
途中あるのは藤古川ダムです。
彦根城級の鬼畜勾配な階段を上下し、川を超えて、いよいよ刑部の陣地へ足を踏み入れます。
藤川台
藤古川(関の藤川)の右岸に位置している、この川岸の上を藤川台と称します。地形が平で、やや高いところからその名があります。
此所に大谷吉継(吉隆)、戸田重政、平塚為広等が布陣し、小早川隊等との壮絶な死闘を展開しました。
大谷隊が最初陣した宮上の丘陵上には空堀が縦横に連なっており、地形をうまく生かした陣の構築跡が見られます。 関ヶ原町
まずは、為広さんの碑に到着!
平塚為広の碑
合戦当時垂井城主(一万二千石)だった為広は、吉隆(吉継)と親しかったため、大谷隊に加わっていました。
平塚・戸田両隊の小早川隊との勇戦降りは目覚ましかったが、脇坂らの背反が加わり、味方の壊滅を見極めた為広は、辞世の句を打ち取った首に添えて吉隆に届けさせると、藤川台の露と消えました。
それを碑裏に留めたのは子孫定二郎です。 関ヶ原町
ここでちょうど12時になりました。
合戦当日、裏切り直前の、奮闘していた時間ですね。
為広さんの碑から道路を挟んで、これから山の中に入っていく訳ですよ。うん。
ここも…キツかった…。思ってたより、長い、長い…。傾斜もあるしね。
この時点で、半袖Tシャツ一枚でよいくらい暑かった!!
うおぉぉ!コート脱ぎたい!!(でも荷物になるから、肩に羽織る感じで)
マフラー外して、これも羽織る。(全体的にゴットファーザーみたいなカッコになったw)
進みます。
進みます。進みます。
進みます。進みます。進みます…
…ちらちらと見えている、あの旗はー!!!
刑部ぅぅぅぅ!!(やっと着いたー!)ヽ(`Д´)ノ
大谷吉隆(吉継)墓
吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。
旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束ここ宮上に出陣してきたのです。
壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。
これは敵方藤堂家が建てたものです。 関ヶ原町
湯浅の五助と一緒に墓が並んでました。(左:五助、右:刑部)
…っていうか、何故、刑部関連がこの場所なんだろ? ここが最終の陣跡??
首なし胴体があった場所…じゃないよね?
近くに藤堂家が立てたらしい碑があります。
裏面には碑文が。
現物見ても薄かったんで無理だと思ったんだケド、やっぱ写真にも写らんかったなぁ。
要約すると「負けること知ってたケド、三成との友誼の為、そして豊臣家への忠誠の為、死を覚悟して戦に挑む。素晴らしい、これぞ武士道うぅ!」…って感じ。
ちなみにこの碑が立てられたのが、昭和15年って書いてあったと思う。(んで、碑の前面の筆跡が藤堂伯爵筆だったと)
墓の方は、刑部が明治時代で、五助が大正時代…だっけか(裏をのぞいた)。
…意外と、最近なんだよね(苦笑)。
江戸時代よりあったのを、ボロいので立て直したのかなぁ?
それともその時代からフューチャーされたのかなぁ?
ここで少しだけお茶補給タイムをし、出発。
次は、刑部が最初に布陣した場所へ!
・・・また、長い行軍なんですけどね。
獣道じゃないダケ、マシか…。 …熊は出るそうだケドw(by看板)
・・・着きましたぞぅ〜! (☆∀☆)
大谷吉隆(吉継)陣跡
親友三成の懇請を受けた吉隆は、死に装束でここ宮上に出陣してきました。
松尾山に面し、東山道を見下ろせるこの辺りは、古来山中城といわれるくらいの要害の地でした。
九月三日の到着後、山中村郷士の地案内と村の衆の支援で、浮田隊ら友軍の陣造りも進め、十五日未明の三成ら主力の着陣を待ったといいます。 関ヶ原町
最初の陣地ですよね。ここ。
看板にある様に、「古来山中城といわれるくらいの要害の地」ってことを知ってて此所に着陣したのなら、
やはり為広さんの知恵なんじゃないかと。
為広さん、この近くの垂井の城主だし。地形を深く知ってても、おかしくないじゃん?
逆に刑部一人の力なら、知らない土地で眼も見えないのにここまでは、さすがに難しいんじゃないか…と思う。(空堀もたくさん作ってたらしいし…)
村の郷士が率先して、支援や案内してるってことでも、この付近を治める者として、手回しだったり、
村人から尊敬・知己があったりしたんじゃないかな? …って思う。
それにしても、ここで2週間近く待ったんだねw
西軍の陣造りもしたそうだし、裏方進行ですか、刑部。
陣跡のスグ近くに、神社があります。
刑部の陣跡で、二回目の休憩。そこでおにぎり1つを食べる。
(はぁ〜〜)と思いを馳せながら休憩していると、
ガサッ、ガサッ、っと前方に通り過ぎる複数の陰が。…そうえいば、熊注意の看板…(゚Д゚;)
じっとしばらくしてると、また、ガサッ、ガサッ、と中型犬っぽい大きさのが横切る。
Σ(´д`;) どきどきどきどき…
逃げよう…と神社の陰に隠れた時、もう一匹ガサッ。そいつが立ち止まった時、目が合って…
・・・・・・猿うぅぅ!!! ヽ(;´Д`)ノハァハァハァハァ
秀吉様達の御通りでした。はぁ〜よかった〜。
十分休憩したので、次の陣へ。
ちなみにこの神社は、関ヶ原行きの線路沿いにありますので、
列車内からこんな風に見れますよ。(*´д`*)
つぎのポイントへ…
旅行:2008.12.24 関ヶ原(上)
●プロローグ
君は「関ヶ原の戦い」というのを知ってるかい?
そう、学校の日本史でも、ここ位はとりあげるよね。
今から約400年前、前例にない大規模な、欲と理想と裏切りの“コロシアイ”があったのサ。
・・・ その地を巡ってみた・・・
●プロローグ
君は「関ヶ原の戦い」というのを知ってるかい?
そう、学校の日本史でも、ここ位はとりあげるよね。
今から約400年前、前例にない大規模な、欲と理想と裏切りの“コロシアイ”があったのサ。
・・・ その地を巡ってみた・・・
なーんて。
はい、関ヶ原の戦いの舞台、岐阜県は「関ヶ原」です。(そのまま)
大阪駅より8時5分発の【JR東海道本線/新快速】に乗り、米原(滋賀県/琵琶湖中部)で乗り換え、
関ヶ原駅へは10時14分到着。
数日前より関ヶ原町の天気予報をガン見し、晴れの日を狙い、
気温予報がヒト桁代だったので、靴下や中着を二重に着て、防寒対策ばっちこーい!
米原〜関ヶ原間から見える伊吹山山頂には、雪化粧が綺麗にみえました。
それにしても米原〜関ヶ原間は電車内満員だったな…。学生さんっぽい人が多かった…。スキーですか?
そ の ま え に 。
今回はきちんと準備してきたよ!
ばっ、散策プランじゃねーよ。これだよ!
お に ぎ り だ よ !(兵糧)
朝食&昼食(&おやつ?)に早朝から握ったさ! 前日はまた寝てないからね!(敦賀リターンズ)
とりあえずコーヒーだけを飲んで家を出、大阪駅でおにぎりの包みを落として、
道行くお姉さんに「…あの…おにぎり落としましたよ?」と教えられ、あせあせ拾って、
到着した関ヶ原の駅でまず2つ、食。そうそう、飲み物も駅前で買っとかないとね!
ごはん食べて、しばらくして気づく。…あっ、看板。
名物看板をどーしたらスルーできるのか、自分の脳の構造が謎なんですが、やっと気づいて撮影☆
(彦根のときも、駅前の井伊像に気づいたの、ピザまん食べる時だったもんなぁ…/苦笑)
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東軍の主な武将
関東 江戸城主 二百四十万石 徳川家康 推定兵数30000
上野 箕輪城主 十二万石 井伊直政 推定兵数3000
伊予 松前城主 十万石 加藤嘉明 推定兵数3000
丹後 宮津城主 二十三万石 細川忠興 推定兵数5000
豊前 中津城主 十八万一千石 黒田長政 推定兵数5400
尾張 清洲城主 二十万石 福島正則 推定兵数6000
美濃 岩手城主 六〇〇〇石 竹中重門 推定兵数200
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西軍の主な武将
近江 佐和山城主 十九万四千石 石田三成 推定兵数6000
薩摩 鹿児島城主 六十万九千石 島津惟新 推定兵数1600
肥後 宇土城主 二十万石 小西行長 推定兵数4000
備前 備中岡山城主 五十七万四千石 宇喜多秀家 推定兵数18000
越前 敦賀城主 五万石 大谷吉継 推定兵数3100
筑前 名島城主 五十二万二千石 小早川秀秋 推定兵数13000
美濃 垂井城主 一二〇〇〇石 平塚為広 推定兵数400
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観光地に着いたら、まずマップゲット。これ基本。
駅構内から駅前をフラフラするも、見当たらず、ここより少し歩いた「歴史民俗資料館」でゲットしよう!と進んでいく。
その道のりで見つけたのが、あっ!あの旗は!!
「東首塚」と「井伊直政の陣跡」。おぉぉぉぉ! 井伊だー!井伊だー! …とテンション↑。
首塚は、西軍首の検分後、それらをここに埋葬したんだってさ。
まぁ、そんなこんなで進みます。
町役場近くの貯水タンクには、関ヶ原の絵巻。
要地要地に関連する武将旗が立っているので、凄く雰囲気がいいし、巡ったり、見てて楽しいデス。
あっ!あそこだ!っていう。
はい、役場に着きました。
歴史民俗資料館まであと少し…。向に見える白い建物がそれです。
マップ…、お土産の下調べもしとこうかな…と進んでみれば、
・・・休館日だとぅ! Σ(||゚Д゚)ヒィィィィ
はっ、はははっ…(乾いた笑い)。私が悪いのだよ…。
敦賀では各名所はきっちり休館日チェックをしたのに、今回はズボラしたから…。
果てしなくダメージを受け、でもこのまま進むっきゃない…。
マップ…マップ…とつぶやき、
とりあえず笹尾山(三成んとこ/近かったので)に向かっていくと…、警察署発見!
「観光マップありますか…」とおそるおそる聞いてみれば、あ っ た ーー! .。.:*・゚(n`∀`)η゚・*:.。
その後もお巡りさんズは、親切にいろいろ「これはどう?」って刊行物を出してくれる!!
あっ、ありがとうぅぅ(;´Д⊂)
ゲットしたマップ装備し、歩いてくと…
「決戦地」の碑。
こういう風に各要地や名所には、看板が立っております。はい。(以後、看板写真は省略)
決戦地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いでしたが、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の敗色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。 関ヶ原町
解説では「決戦地」って書いてるけど、
つまりは「敗色濃厚時に各東軍が雪崩れ込んで、西軍フルボッコになった場所」ってことかね。
激戦地といえば、激戦地か…。
その競り合いは、最早、戦局に関係ないのだけれど…。
る〜らら〜♪ …と寂しい気分で、三成の陣・笹尾山へ向かいます。 。・゚(゚`Д)゙
関ヶ原駅の前の駅より、うっすら目がウルっと…。
警察署を過ぎても、決戦地を過ぎても、うるうるしてたのですが…
笹尾山を見て、ピタッと止まりました。
おいこらーっ! またお前かー!
…また、山だよ…。三成めぇ…。
佐和山といい、此所といい… ■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ ←みつなり
また高所ばっかりか! このヤロー!!!
三成さん、まじはったり具合半端ないです。(lll´Д`)
佐和山といいこんだけ大物ぶっていれば、そりゃぁ煙たがられるわな…。
山の上に 着 陣!
感覚として、マンションの8階ぐらいを階段で登る感じ?の疲労度。
こちらは松尾山と刑部の陣に向かってマス。
関ヶ原駅を含む、中央部に向かって。左向こうが桃配山。
笹尾山にはこういう、音声付き合戦の解説盤もあります。
石田三成陣跡
ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の作を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。
小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。 関ヶ原町
さぁ、降りるべ、降りるべ。(行きとは違うルートです/登山ルートは2種類あり)
笹尾山の山裾には、竹矢来が組んであります。
島左近(勝猛)陣跡
三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。
前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。
鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。 関ヶ原町
下から見上げると、三成本陣はこんな感じです。(矢印んとこね)
ここに来るまでに、駅から徐々に坂道になってるから、意外と疲れるよ!
…さぁ、各軍巡りを続けましょうか。
このマップは関ヶ原町のサイトのヤツ。(いまの三成んとこが4番ね)
坊っちゃん、商人、薩摩隼人…と、これから巡っていきます。。。
次のポイントへ…
旅行:2008.12.14 彦根、佐和山→大阪
ひこにゃんの動く現場をしばらくガン見し、彦根城を退去。
…ちなみに彦根城は空いてたよ! 見やすさばっちり!
自転車を置いた場所まで戻って、ひこにゃんの次はコレダロ!
最近出現した、悪ノリの産物きゃわいぃマスコットキャラの生まれ故郷、
花しょうぶ通り商店街へGO!
この商店街にある「戦国丸」というお店には、
石田三成をモチーフにした:いしだみつにゃん、島左近をモチーフにした:しまさこにゃん、大谷吉継(ry:おおたににゃんぶのオリジナルグッズなどが置いてあるのだ!
他にも有名戦国武将のグッズや喫茶もあるらしい。
・・・ネタ臭ぇぞう! いくべ、いくべ! (*´艸`)
彦根城の武家屋敷をぐるりん♪と自転車でまわり、目的地に到着。
ここがあのネコ達の住む場所か…。
商店街について早々、真田幸村の旗がお出迎え。ちょっ、またお前か! 幸村自重w(前回:真田ミート)


様々な戦国武将の旗や家紋が至る所にみえる、楽しい商店街です。(・∀・)ニヤニヤ
お目当ての「戦国丸」さんは商店街の中央部分。
店の前からして、戦国武将のカオス状態(笑)。
がらがら〜っと扉を開けると、いろんなグッズや、喫茶コーナー、テーブルには戦国関連の雑誌が。
グッズも見たいケド、朝食以降、現在まで何ものまず食わずだったのでとりあえず、の…のみもの…(死にかけ
アイスコーヒー200円(お菓子付) を注文。
他にも一律200円で、えーっと…小西ぜんざい、大谷ゼリー、直江おかゆ、小早川だんご、なんかがあったと思います。
お菓子付アイスコーヒーで、だいぶと生き返る。ふう。
グッズを買って、店主さんと少しお話しして、退出。
上のキャラクターのしまさこにゃんのお酒を買いに、夢京橋キャッスルロードまで戻る。(そこの「林屋酒店」さんが扱っているらしい)
林屋酒店さんの道路を挟んで向側には、宗安寺があります。
宗安寺
京橋通りにある浄土宗の寺。佐和山城の正門を移築されたと伝えられています。大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)を偲んで、重成忌が行われます。
井伊道政の正室東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪(こうずけのくにみのわ)に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改 名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門(あかもん)」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼 け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思 われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。 (by滋賀県観光情報)
蓮華寺

井伊直政たんが、上野の箕輪(群馬県)にあったものを高崎に移して、そして彦根城建設ってことでココに持って来たらしい。
江戸時代の半ばに焼けたらしいので、1776年再建らしいよ。
お酒をたんまり買って、一度、彦根駅まで戻ることに。


駅前の手作りひこにゃん。
昼飯まだだ…、もうそろそろ何か食わねば…、ということで、コンビニに入ってピザまんを仕入れ、井伊直政公像の前に座って食。
直政たん、鼻が高くてかっこいーなー。
・・・さぁここで思案な訳ですよ。
現在、午後3時。
佐和山系、どうしよう…。龍潭寺、井伊神社、清涼寺…。
あああぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・、とりあえず現地までいこうか。
ってな具合の脳内会議で決定される。観光マップをみて、一路、龍潭寺へ。
途中、道路に「龍潭寺は次信号右折」と看板があったので指示通りにいくと、

ひたすら続く国道。ひたすらペダルを漕ぐ自分。風景はどんどん殺風景になってくる。

・・・。途中で川になったので川名をみると「矢倉川」。ぎゃわぁ! 米原の方に向かってるぅ!
うおぉぉ〜、ということで看板のところまで戻ると、
…ワタクシ、看板を進行方向の逆方向から見てたのね、( ;∀;)
時間と体力と精神を消費し、佐和山到着。
佐和山

清涼寺

彦根市の東北、佐和山の麓にある寺。佐和山は、石田三成の居城があった場所で、佐和山城時代に石田三成や家老の島左近の屋敷のあった場所が現在の 境内。ま た、1603(慶長7)年に井伊直正が没した際にこの地を墓所とし、以来、井伊家代々の墓所となっている。徳川幕府の重臣だった井伊家の権勢で全国から高 僧を呼び寄せたため、江戸時代には修行道場としての名声も非常に高かったという。現在、井伊直弼が参禅修行したという道場も一般に開放されている。(by滋賀県観光情報)
井伊神社(井伊直憲埋髪塚)

龍潭寺

井伊氏の始祖、共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心派の寺院。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場であったと伝えられています。
江戸時代初期に建立された方丈は、彦根にある数少ない方丈建築の1つ。 方丈襖絵前104面は、芭蕉十哲の1人森川許六によって描かれたもので、東庭とともに市指定の文化財になっています。(by滋賀県観光情報)

龍潭寺の入り口には、石田三成公の石像がちょこんと鎮座されてマス。
さぁ、どうするよ、ってなもんで。
現在、15時半をもうまわっている。日没まで約1時間ってトコか。
手には、おみやげの図録やらグッズやらお酒がずっしり。
事前にネットで調べた分には、佐和山ハイキングコースは登山であること。でも10分程度で登れるとのこと。
…たぶん今後、佐和山だけを登りにここへはこないだろう。
ああぁぁぁ……、いくかぁ。
…という訳で、7cmヒール・酒5本・空腹・持飲料なし・体力残少、
加えて、朝の雨で濡れ落ち葉だらけの山を登ることに。
・・・・・・ほんとうに、バカだ。
(一応、懐中電灯は鞄に入ってる)

まずは龍潭寺横の墓場より、ハイキングコースが始まります。
ひたすら石段を登る…。
墓場と石段が途切れた頃、なんとなくくぼみがあって、これ道じゃね?ってな感じの獣道が続いていきます。
途中で道幅30cm程の崖っぷちやら、石段もないただ斜めの傾斜を登ったり。
沈む太陽と競争さ!
うはっ、落ち葉で下がみえん…
うはっ、下が濡れててスベル…
うはっ、両手塞がってる…
登ること20分ほど。やっと頂上へ。




行きも坂なら、帰りも坂な訳で…(北の国から調でお読みください)
・・・ちーん。 \(^o^)/
木の枝やツタを握り、坂道を一部ずり落ちて泥にまみれ、無事、彦根駅まで生還。
(佐和山登山は、昇り降り、休憩も含めて1時間ほどみとけばいいカモ)
泥に汚れたの靴とパンツの女は、16時54分発のJR北陸本線新快速・播州赤穂行で大阪に帰りましたとさ。
ちなみに、
この帰り電車、京都辺りから満員御礼のすし詰め状態に。
今日は赤穂浪士の討入りの日だから、播州赤穂に行くのか!と思いきや、みなさんルミナリエに行くようでした。
で す よ ね ー 。
…ちなみに彦根城は空いてたよ! 見やすさばっちり!
自転車を置いた場所まで戻って、ひこにゃんの次はコレダロ!
最近出現した、
花しょうぶ通り商店街へGO!
この商店街にある「戦国丸」というお店には、
石田三成をモチーフにした:いしだみつにゃん、島左近をモチーフにした:しまさこにゃん、大谷吉継(ry:おおたににゃんぶのオリジナルグッズなどが置いてあるのだ!
他にも有名戦国武将のグッズや喫茶もあるらしい。
・・・ネタ臭ぇぞう! いくべ、いくべ! (*´艸`)
彦根城の武家屋敷をぐるりん♪と自転車でまわり、目的地に到着。
ここがあのネコ達の住む場所か…。
商店街について早々、真田幸村の旗がお出迎え。ちょっ、またお前か! 幸村自重w(前回:真田ミート)
様々な戦国武将の旗や家紋が至る所にみえる、楽しい商店街です。(・∀・)ニヤニヤ
お目当ての「戦国丸」さんは商店街の中央部分。
店の前からして、戦国武将のカオス状態(笑)。
がらがら〜っと扉を開けると、いろんなグッズや、喫茶コーナー、テーブルには戦国関連の雑誌が。
グッズも見たいケド、朝食以降、現在まで何ものまず食わずだったのでとりあえず、の…のみもの…(死にかけ
アイスコーヒー200円(お菓子付) を注文。
他にも一律200円で、えーっと…小西ぜんざい、大谷ゼリー、直江おかゆ、小早川だんご、なんかがあったと思います。
お菓子付アイスコーヒーで、だいぶと生き返る。ふう。
グッズを買って、店主さんと少しお話しして、退出。
上のキャラクターのしまさこにゃんのお酒を買いに、夢京橋キャッスルロードまで戻る。(そこの「林屋酒店」さんが扱っているらしい)
林屋酒店さんの道路を挟んで向側には、宗安寺があります。
宗安寺
京橋通りにある浄土宗の寺。佐和山城の正門を移築されたと伝えられています。大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)を偲んで、重成忌が行われます。
井伊道政の正室東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪(こうずけのくにみのわ)に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改 名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門(あかもん)」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼 け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思 われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。 (by滋賀県観光情報)
蓮華寺
井伊直政たんが、上野の箕輪(群馬県)にあったものを高崎に移して、そして彦根城建設ってことでココに持って来たらしい。
江戸時代の半ばに焼けたらしいので、1776年再建らしいよ。
お酒をたんまり買って、一度、彦根駅まで戻ることに。
駅前の手作りひこにゃん。
昼飯まだだ…、もうそろそろ何か食わねば…、ということで、コンビニに入ってピザまんを仕入れ、井伊直政公像の前に座って食。
直政たん、鼻が高くてかっこいーなー。
・・・さぁここで思案な訳ですよ。
現在、午後3時。
佐和山系、どうしよう…。龍潭寺、井伊神社、清涼寺…。
あああぁぁぁぁぁ・・・・・・・・・・、とりあえず現地までいこうか。
ってな具合の脳内会議で決定される。観光マップをみて、一路、龍潭寺へ。
途中、道路に「龍潭寺は次信号右折」と看板があったので指示通りにいくと、
ひたすら続く国道。ひたすらペダルを漕ぐ自分。風景はどんどん殺風景になってくる。
・・・。途中で川になったので川名をみると「矢倉川」。ぎゃわぁ! 米原の方に向かってるぅ!
うおぉぉ〜、ということで看板のところまで戻ると、
…ワタクシ、看板を進行方向の逆方向から見てたのね、( ;∀;)
時間と体力と精神を消費し、佐和山到着。
佐和山
清涼寺
彦根市の東北、佐和山の麓にある寺。佐和山は、石田三成の居城があった場所で、佐和山城時代に石田三成や家老の島左近の屋敷のあった場所が現在の 境内。ま た、1603(慶長7)年に井伊直正が没した際にこの地を墓所とし、以来、井伊家代々の墓所となっている。徳川幕府の重臣だった井伊家の権勢で全国から高 僧を呼び寄せたため、江戸時代には修行道場としての名声も非常に高かったという。現在、井伊直弼が参禅修行したという道場も一般に開放されている。(by滋賀県観光情報)
井伊神社(井伊直憲埋髪塚)
龍潭寺
井伊氏の始祖、共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心派の寺院。
井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天が佐和山(232.5m)山麓に移築しました。
近郊に多くの末寺をかかえ、学僧が学ぶ大道場であったと伝えられています。
江戸時代初期に建立された方丈は、彦根にある数少ない方丈建築の1つ。 方丈襖絵前104面は、芭蕉十哲の1人森川許六によって描かれたもので、東庭とともに市指定の文化財になっています。(by滋賀県観光情報)
龍潭寺の入り口には、石田三成公の石像がちょこんと鎮座されてマス。
さぁ、どうするよ、ってなもんで。
現在、15時半をもうまわっている。日没まで約1時間ってトコか。
手には、おみやげの図録やらグッズやらお酒がずっしり。
事前にネットで調べた分には、佐和山ハイキングコースは登山であること。でも10分程度で登れるとのこと。
…たぶん今後、佐和山だけを登りにここへはこないだろう。
ああぁぁぁ……、いくかぁ。
…という訳で、7cmヒール・酒5本・空腹・持飲料なし・体力残少、
加えて、朝の雨で濡れ落ち葉だらけの山を登ることに。
・・・・・・ほんとうに、バカだ。
(一応、懐中電灯は鞄に入ってる)
まずは龍潭寺横の墓場より、ハイキングコースが始まります。
ひたすら石段を登る…。
墓場と石段が途切れた頃、なんとなくくぼみがあって、これ道じゃね?ってな感じの獣道が続いていきます。
途中で道幅30cm程の崖っぷちやら、石段もないただ斜めの傾斜を登ったり。
沈む太陽と競争さ!
うはっ、落ち葉で下がみえん…
うはっ、下が濡れててスベル…
うはっ、両手塞がってる…
登ること20分ほど。やっと頂上へ。
行きも坂なら、帰りも坂な訳で…(北の国から調でお読みください)
・・・ちーん。 \(^o^)/
木の枝やツタを握り、坂道を一部ずり落ちて泥にまみれ、無事、彦根駅まで生還。
(佐和山登山は、昇り降り、休憩も含めて1時間ほどみとけばいいカモ)
泥に汚れたの靴とパンツの女は、16時54分発のJR北陸本線新快速・播州赤穂行で大阪に帰りましたとさ。
ちなみに、
この帰り電車、京都辺りから満員御礼のすし詰め状態に。
今日は赤穂浪士の討入りの日だから、播州赤穂に行くのか!と思いきや、みなさんルミナリエに行くようでした。
で す よ ね ー 。
旅行:2008.12.14 敦賀→長浜・彦根
…と、その前に。

前日の昼夜食が、おにぎり2個でおわったので、なにか食べねば…。(つД`)
一応、宿泊ホテルにも食堂はあるので、朝食はそこで食べようとベットの中で意気込んで、…寝る。
翌朝、目覚ましで6時過ぎに起床。「日の出」を見ようと思ってサ!
昨日の敦賀は6時59分ぐらいが日出時刻だったので、6時45分ごろからホテルを出て、道ばたにスタンバイ!
・・・おぉぉ、さむいぃぃぃ!! (||゚Д゚)
四方の山には、濃い霧が。(予報では小雨ときに雪)
がったがた震えながら、東の方を見て待ってると、7時前、空が明るくなり始める。
…一日がはじまった。…ごはん、たべよう…。
500円で和食バイキング。簡易ホテルなので、内容はまぁ、そんな感じ(苦笑)。
みそ汁とごはん2膳と生卵とお惣菜で至福を味わう。し・あ・わ・せ〜!!!
コーヒーもあったので、最後にすすって、ごはん終了。
7時45分にはチェックアウトして、敦賀駅まで町並みを見ながら歩く。
敦賀駅付近は、ただいま気温6度。
長浜への電車は9時4分発なので、しばらく時間が空く。
お土産を見〜よぉっと。
敦賀名物は、…昆布らしい。
う〜ん、おぼろ昆布かぁ。1袋買っても食べないもんなぁ…。
ほかは「へしこ」関係や、鮮魚が町のおすすめらしい。
事前にネットで調べておいた、名物らしい「かたパン」を購入して、これでいっか、と締。
観光するのに分かりやすい名物がないのは、客にとって難しいなぁ…。
電車は敦賀を南下、
賤ヶ岳エリアを通り、浅井長政の城エリアを過ぎ、姉川エリアも通過して、いよいよ長浜へ。
9時52分に 長浜駅着。
今日の滋賀県は前日まで雨予報だったのに、どうやら明け方降ったきりで、その後は晴れに。
うわ〜い、観光日和! ヾ(*゚∀゚)ノ
駅をおりて西側、まずは長浜城(長浜城歴史博物館)へ。
駅から歩いて、すぐ到着。おぉ、楽!
城壁が白くて綺麗で、いかにも人工的な感じだなぁ〜。(昭和58年に再興 by観光マップ)


博物館の内容は、…公式hpがあるのでそちらで。
長浜キッズや秀吉、思ったより少なかったな…。
浅井家とか、鉄砲職人とか、絵師とか、そういうのが多かったな。
1階の売店では、なんとなく三成関係の本がそろっていた様にオモイマス。はい。
ちなみに、他の人が居なかったので、屋上の天守閣独り占め状態!
四方をぼけーっと見渡してました。(写真は安土に向いてマス)
長浜城の後は、また駅に戻り、今度は東側の町並みを散策。
有名な「佐吉・秀吉出会いの像」もみました。
…えっ、写真? みんなレポに乗っけてるし、別になくて…(ry
特に目的地もないのでぶらぶらしてると、良い感じの町並み発見。
観光マップによると、北国街道らしい。綺麗な町並みをぶらつきながら、お土産のフナ寿司を購入。



12時29分発の電車に乗って、お次は彦根駅へ。
まずは駅前で、観光マップとレンタサイクルをゲット。
敦賀は紙に記入だけで済んだけど、ここでは身分証の提示を求められます。
…さすが、徳川系列の町。三河者は疑いぶかいのぉ。
破損のときは〜とか、紛失のときは〜など、説明が細かいです。…さすが(ry
料金はなんと1日500円ぽっきり! 安っ!!
彦根観光には、超便利な 自転車! をおすすめします。はい。
まずはここだね、彦根城。
ラブリー井伊直政たんのお城ダヨ☆
やはりここは大手門からまかり通る!で出発!


…彦根城、山城なんだね。…石階段が多い(ハァハァ
さすが、徳川<M属性>井伊家だ。
まずは天秤櫓と廊下橋。


長浜城の大手門を移築したともいわれているそうです。
さすがは、徳川<ケチりますけど何か>家系列。


天秤櫓のなかはこんな感じ。見ちゃダメなとこは、軍旗でブロッーク!
(井伊の旗って、かわいいよね! 「井」ってそのままやん)

続いて太鼓門櫓。
これは調査で、「どっかの城の城門を移築した」と判明しているそうです。…佐和y(ry
スゴいツギハギだらけだ、彦根城!
さすがは、徳川<吝嗇が基本・使えるもんは人のを流用>家系列。


そして天守閣です。ここも長浜同様、こじんまり、って感じ。
ゼーハーいいながら石階段を登って来て、天守閣入り口からみえる景色は、
もう立派な「山の頂上から見たよ的」風景。標高高い…

な の に 、彦根城天守閣内はこれまた階段。
しかも勾配が、鬼畜!
な ん だ こ れ
足に非常にやさしくない設計。


左写真は天守閣内廊下。
そしてみんなのアイドル、ひこにゃん!
14時から30分間サービスタイムです。
ひこにゃんに見事にやられ、お次は、みつにゃん、さこにゃん、佐和山へ
二日目 その2に続く
前日の昼夜食が、おにぎり2個でおわったので、なにか食べねば…。(つД`)
一応、宿泊ホテルにも食堂はあるので、朝食はそこで食べようとベットの中で意気込んで、…寝る。
翌朝、目覚ましで6時過ぎに起床。「日の出」を見ようと思ってサ!
昨日の敦賀は6時59分ぐらいが日出時刻だったので、6時45分ごろからホテルを出て、道ばたにスタンバイ!
・・・おぉぉ、さむいぃぃぃ!! (||゚Д゚)
四方の山には、濃い霧が。(予報では小雨ときに雪)
がったがた震えながら、東の方を見て待ってると、7時前、空が明るくなり始める。
…一日がはじまった。…ごはん、たべよう…。
500円で和食バイキング。簡易ホテルなので、内容はまぁ、そんな感じ(苦笑)。
みそ汁とごはん2膳と生卵とお惣菜で至福を味わう。し・あ・わ・せ〜!!!
コーヒーもあったので、最後にすすって、ごはん終了。
7時45分にはチェックアウトして、敦賀駅まで町並みを見ながら歩く。
敦賀駅付近は、ただいま気温6度。
長浜への電車は9時4分発なので、しばらく時間が空く。
お土産を見〜よぉっと。
敦賀名物は、…昆布らしい。
う〜ん、おぼろ昆布かぁ。1袋買っても食べないもんなぁ…。
ほかは「へしこ」関係や、鮮魚が町のおすすめらしい。
事前にネットで調べておいた、名物らしい「かたパン」を購入して、これでいっか、と締。
観光するのに分かりやすい名物がないのは、客にとって難しいなぁ…。
電車は敦賀を南下、
賤ヶ岳エリアを通り、浅井長政の城エリアを過ぎ、姉川エリアも通過して、いよいよ長浜へ。
9時52分に 長浜駅着。
今日の滋賀県は前日まで雨予報だったのに、どうやら明け方降ったきりで、その後は晴れに。
うわ〜い、観光日和! ヾ(*゚∀゚)ノ
駅をおりて西側、まずは長浜城(長浜城歴史博物館)へ。
駅から歩いて、すぐ到着。おぉ、楽!
城壁が白くて綺麗で、いかにも人工的な感じだなぁ〜。(昭和58年に再興 by観光マップ)
博物館の内容は、…公式hpがあるのでそちらで。
長浜キッズや秀吉、思ったより少なかったな…。
浅井家とか、鉄砲職人とか、絵師とか、そういうのが多かったな。
1階の売店では、なんとなく三成関係の本がそろっていた様にオモイマス。はい。
ちなみに、他の人が居なかったので、屋上の天守閣独り占め状態!
四方をぼけーっと見渡してました。(写真は安土に向いてマス)
長浜城の後は、また駅に戻り、今度は東側の町並みを散策。
有名な「佐吉・秀吉出会いの像」もみました。
…えっ、写真? みんなレポに乗っけてるし、別になくて…(ry
特に目的地もないのでぶらぶらしてると、良い感じの町並み発見。
観光マップによると、北国街道らしい。綺麗な町並みをぶらつきながら、お土産のフナ寿司を購入。
12時29分発の電車に乗って、お次は彦根駅へ。
まずは駅前で、観光マップとレンタサイクルをゲット。
敦賀は紙に記入だけで済んだけど、ここでは身分証の提示を求められます。
…さすが、徳川系列の町。三河者は疑いぶかいのぉ。
破損のときは〜とか、紛失のときは〜など、説明が細かいです。…さすが(ry
料金はなんと1日500円ぽっきり! 安っ!!
彦根観光には、超便利な 自転車! をおすすめします。はい。
まずはここだね、彦根城。
ラブリー井伊直政たんのお城ダヨ☆
やはりここは大手門からまかり通る!で出発!
…彦根城、山城なんだね。…石階段が多い(ハァハァ
さすが、徳川<M属性>井伊家だ。
まずは天秤櫓と廊下橋。
長浜城の大手門を移築したともいわれているそうです。
さすがは、徳川<ケチりますけど何か>家系列。
天秤櫓のなかはこんな感じ。見ちゃダメなとこは、軍旗でブロッーク!
(井伊の旗って、かわいいよね! 「井」ってそのままやん)
続いて太鼓門櫓。
これは調査で、「どっかの城の城門を移築した」と判明しているそうです。…佐和y(ry
スゴいツギハギだらけだ、彦根城!
さすがは、徳川<吝嗇が基本・使えるもんは人のを流用>家系列。
そして天守閣です。ここも長浜同様、こじんまり、って感じ。
ゼーハーいいながら石階段を登って来て、天守閣入り口からみえる景色は、
もう立派な「山の頂上から見たよ的」風景。標高高い…
な の に 、彦根城天守閣内はこれまた階段。
しかも勾配が、鬼畜!
な ん だ こ れ
足に非常にやさしくない設計。
左写真は天守閣内廊下。
そしてみんなのアイドル、ひこにゃん!
14時から30分間サービスタイムです。
ひこにゃんに見事にやられ、お次は、みつにゃん、さこにゃん、佐和山へ
二日目 その2に続く
旅行:2008.12.13 大阪→敦賀
本日、土曜日。
大阪駅9:15発のJR東海道本線新快速(湖西線)に乗り、敦賀へ向け出発!
…人多っ!
車内ギュウギュウです。まじでか! Σ (゚Д゚;)
新大阪で近くの席が空いたので座れたものの、京都を数駅過ぎるまで大入り状態でした。
(なんだか50才オーバーの、集団登山客らしき人々が多かった…)
通過した駅名「比叡山坂本」なんて聞くと、ニヤニヤ。 光秀だw
そんなこんなで途中、湖西線は3両編成になり、
大阪→敦賀の場合、左手に山々、右手に琵琶湖の景色が広がり続けます。いい旅夢気分。

11:14、敦賀駅着。
本日、土曜日。
大阪駅9:15発のJR東海道本線新快速(湖西線)に乗り、敦賀へ向け出発!
…人多っ!
車内ギュウギュウです。まじでか! Σ (゚Д゚;)
新大阪で近くの席が空いたので座れたものの、京都を数駅過ぎるまで大入り状態でした。
(なんだか50才オーバーの、集団登山客らしき人々が多かった…)
通過した駅名「比叡山坂本」なんて聞くと、ニヤニヤ。 光秀だw
そんなこんなで途中、湖西線は3両編成になり、
大阪→敦賀の場合、左手に山々、右手に琵琶湖の景色が広がり続けます。いい旅夢気分。
11:14、敦賀駅着。
うわ〜、敦賀だ〜ヽ(゚∀゚)ノ

意外と街が整備されてる…。
駅前は開発されていて、便利よさそうだな。うん。
駅隣接の観光協会に行って、街マップとレンタル自転車をゲット。
対応してくれたお姉さんに目的を聞かれたので、
正直に「特に決めてないんですが…、とりあえず史跡をまわろうかと…」というと、一瞬フリーズされる。
(こんなところまでラフなプランで来るヤツいねーよ!)ですか!? (;´Д`)ハァハァ
すいません、適当で…。
「じゃぁ…」と差し出された、刑部と松尾芭蕉の史跡マップを受け取り、出発。
気比神宮

正面の木造大鳥居は、国の重要文化財…だそうです。


灯籠の形がおもちゃみたいでかわいい。


石像は松尾芭蕉。
永賞寺


大谷吉継の菩提寺…だそうです。(ここでジャスト12時。ご陽気な音楽が流れる)
供養塔に行けば、…シートがかけられてる!! Σ(゚Д゚;
なんですか! 冬支度っすか! がっちりガードですか!
<碑文>
敦賀城主大谷刑部吉継公の供養塔
永禄二年(一五五九年)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川家を開基として再興、武山栄文禅師を招じて曹洞宗永賞寺として優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦に敗れ、四十二才で切腹し、この塔は慰霊のため九年後(一六〇九年)に建てられたと伝えられる。
ぽつん、と置かれているお供え物をみると、

!!!
こらっ! だれだ、置いたのw
は〜い、次は退却戦で有名な、金ヶ崎へ。


信長が浅井朝倉と交戦中の時期。んで、秀吉がここでグッジョブ ( ´∀`)b するのです。はい。
とにかく山なので、登るべ。
ずっと整備された道なので、しんどいことはしんどいけど、だいぶマシです。(佐和山よりはね!/熱弁)
「月見御殿」からの景色


左ずっと奥が朝倉の城方向、右が浅井の城方向
ここで武将達がお月見をしたらしいんだけど(by看板)、…ここまでわざわざ来るの、しんどくない?
確かに見晴らしはすっばらしいんだケドね。…ねぇ、しんどくない??
次、海岸線を通ってみなとつるが山車会館。


中で働いているお姉さんが作った「よっしー」が見れますw
刑部…、顔がこゆいねw
<人形の説明>
敦賀城主 大谷刑部吉継(吉隆)の像
敦賀城最後の城主 大谷吉継は、豊後の大友盛治の子、あるいは近江出身であるともいわれている。 十六歳の時、長浜城主羽柴(豊臣)秀吉に仕え、天正十七 年(一五八九)三十歳の若さで敦賀五万石の領主となり大谷刑部少輔吉継と称した。 秀吉の配下である五奉行のひとりとして活躍し、文禄、慶長の役にも朝鮮 半島に出兵している吉継は結城町と三島町にまたがる城城に三層の天守閣を擁する敦賀城を築いた。また在城十五年間に現在敦賀の町並みの基礎を築いた。 今 も常宮神社にある国宝朝鮮鐘は、吉継の寄進したものと伝えている。秀吉の死後、慶長五年(一六〇〇)石田三成の友情に感じて西軍に与し、関ヶ原の合戦に参 加して四十二歳の若さで自刃し果てた。
シアター内では、山車と敦賀の祭りについての説明映像と実物の山車がみれます。
(ちなみに展示物は一年交代らしく、08年9月〜1年間は、刑部&三成&小早川の山車らしいよ)
山車に飾っている人形には、実際の鎧兜と顔に能面を被せてあるので、カッコイイヨ!
なお、たぶん残っていたら、お姉さん手作りの「よっしー&みっちー(三成)」のめちゃ可愛いシールも貰えるぞ!(大小2枚貰っちゃった☆) 愛だよ、愛! (*゚∀゚)=3ハァハァ
以前、長浜博物館と共催した、大谷吉継についての解説シートも貰えちゃいました!
(長浜では三成版のが100円で売られていたw)
刑部関連については、観光協会で貰えるパンフレットと、ここの解説シートがだいぶ詳しいと思います。はい。
小学校そばにある、敦賀城案内碑。

敦賀城ってばこんなんでした〜、ってな感じ。
真願寺
こちらには城の柱穴が残る、敦賀城の礎石がありまーす。


<門前の碑文>
大谷吉継 敦賀城跡碑
大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正十三年(一五八五)刑部少輔となり、敦賀五万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。
慶長五年(一六〇〇)九月豊臣家のため、徳川家康と関ヶ原に戦ったが敗れて四十二才で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、智勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)
吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和二年(一六一六)一国一城の定めで取りこわされた が、当寺にその礎石が残っており、その跡をしのぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。
晴明神社

<観光マップ>
安倍晴明が 990年から5年間、敦賀で修行したとされ、占いに使った祈念石が祀られています。
はいっ! 自転車で移動。 す〜い、すい。
こちらは笙の川。

正八幡神社

刑部たんが、信仰心がとっても厚いので、竜の彫り物や灯籠、鳥居を寄進したそうです。
来迎寺

敦賀城の中門だったそうです。
自転車で移動で、す〜い、すい。
やたっ! こちらが気比の松原です!!
…もう、跡とか石とか寺とか、…飽きちゃってさ…(遠い目)。


わ〜い、いい景色〜。
人気のない道、す〜いすい。
奥までいったら、戻ってきて、途中で松林を縫って敦賀浜へ。
「水、綺麗ッ!!!!」
すごー! すっげー! なんか海見て泣きそうになったw
そりゃ旨いよ、こんな綺麗な海で取れた魚はサ!!


…なんだろ、遺跡より、敦賀の海と、海の彼方にそびえる山々に、じんとくる。
…人間って、ちっちゃぇのな。城石が数個残っただの、墓石が…とか、…なんか切ない。。。
トンビが町中大量ですw でかいんだな、これが。
近くまで飛んでくるよ!

ちょっ! 真田さん宅の幸村さん、敦賀で肉屋開業っすかw

(真田○ートの看板が町の電柱のあちこちにあって、…ニヤニヤしてしまうw )
駅前は「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」の像であふれています。
みたら楽しいと思いますよ。

ってな感じで、一日目の敦賀散策は終了。
12時前よりレンタサイクルを借りて観光巡りをし、
敦賀駅前 → 気比神宮 → 金ヶ崎 → 各寺 → 気比の松原 → 敦賀駅前
15時半ごろ、自転車を返却。料金はレンタル4時間以内だったので500円でした。
ちなみに私はレンタル自転車は必須だと思います。車で行けないような隅々まで行けるし、徒歩では…だいぶキツいよ。
飲食店は駅前に集まっているので、宿泊される方は駅前の方がいいと思います。
二日目につづく
意外と街が整備されてる…。
駅前は開発されていて、便利よさそうだな。うん。
駅隣接の観光協会に行って、街マップとレンタル自転車をゲット。
対応してくれたお姉さんに目的を聞かれたので、
正直に「特に決めてないんですが…、とりあえず史跡をまわろうかと…」というと、一瞬フリーズされる。
(こんなところまでラフなプランで来るヤツいねーよ!)ですか!? (;´Д`)ハァハァ
すいません、適当で…。
「じゃぁ…」と差し出された、刑部と松尾芭蕉の史跡マップを受け取り、出発。
気比神宮
正面の木造大鳥居は、国の重要文化財…だそうです。
灯籠の形がおもちゃみたいでかわいい。
石像は松尾芭蕉。
永賞寺
大谷吉継の菩提寺…だそうです。(ここでジャスト12時。ご陽気な音楽が流れる)
供養塔に行けば、…シートがかけられてる!! Σ(゚Д゚;
なんですか! 冬支度っすか! がっちりガードですか!
<碑文>
敦賀城主大谷刑部吉継公の供養塔
永禄二年(一五五九年)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川家を開基として再興、武山栄文禅師を招じて曹洞宗永賞寺として優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦に敗れ、四十二才で切腹し、この塔は慰霊のため九年後(一六〇九年)に建てられたと伝えられる。
ぽつん、と置かれているお供え物をみると、
!!!
こらっ! だれだ、置いたのw
は〜い、次は退却戦で有名な、金ヶ崎へ。
信長が浅井朝倉と交戦中の時期。んで、秀吉がここでグッジョブ ( ´∀`)b するのです。はい。
とにかく山なので、登るべ。
ずっと整備された道なので、しんどいことはしんどいけど、だいぶマシです。(佐和山よりはね!/熱弁)
「月見御殿」からの景色
左ずっと奥が朝倉の城方向、右が浅井の城方向
ここで武将達がお月見をしたらしいんだけど(by看板)、…ここまでわざわざ来るの、しんどくない?
確かに見晴らしはすっばらしいんだケドね。…ねぇ、しんどくない??
次、海岸線を通ってみなとつるが山車会館。
中で働いているお姉さんが作った「よっしー」が見れますw
刑部…、顔がこゆいねw
<人形の説明>
敦賀城主 大谷刑部吉継(吉隆)の像
敦賀城最後の城主 大谷吉継は、豊後の大友盛治の子、あるいは近江出身であるともいわれている。 十六歳の時、長浜城主羽柴(豊臣)秀吉に仕え、天正十七 年(一五八九)三十歳の若さで敦賀五万石の領主となり大谷刑部少輔吉継と称した。 秀吉の配下である五奉行のひとりとして活躍し、文禄、慶長の役にも朝鮮 半島に出兵している吉継は結城町と三島町にまたがる城城に三層の天守閣を擁する敦賀城を築いた。また在城十五年間に現在敦賀の町並みの基礎を築いた。 今 も常宮神社にある国宝朝鮮鐘は、吉継の寄進したものと伝えている。秀吉の死後、慶長五年(一六〇〇)石田三成の友情に感じて西軍に与し、関ヶ原の合戦に参 加して四十二歳の若さで自刃し果てた。
シアター内では、山車と敦賀の祭りについての説明映像と実物の山車がみれます。
(ちなみに展示物は一年交代らしく、08年9月〜1年間は、刑部&三成&小早川の山車らしいよ)
山車に飾っている人形には、実際の鎧兜と顔に能面を被せてあるので、カッコイイヨ!
なお、たぶん残っていたら、お姉さん手作りの「よっしー&みっちー(三成)」のめちゃ可愛いシールも貰えるぞ!(大小2枚貰っちゃった☆) 愛だよ、愛! (*゚∀゚)=3ハァハァ
以前、長浜博物館と共催した、大谷吉継についての解説シートも貰えちゃいました!
(長浜では三成版のが100円で売られていたw)
刑部関連については、観光協会で貰えるパンフレットと、ここの解説シートがだいぶ詳しいと思います。はい。
小学校そばにある、敦賀城案内碑。
敦賀城ってばこんなんでした〜、ってな感じ。
真願寺
こちらには城の柱穴が残る、敦賀城の礎石がありまーす。
<門前の碑文>
大谷吉継 敦賀城跡碑
大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正十三年(一五八五)刑部少輔となり、敦賀五万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。
慶長五年(一六〇〇)九月豊臣家のため、徳川家康と関ヶ原に戦ったが敗れて四十二才で自刃した。世の人々は「吉継は衆を愛し、智勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)
吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和二年(一六一六)一国一城の定めで取りこわされた が、当寺にその礎石が残っており、その跡をしのぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。
晴明神社
<観光マップ>
安倍晴明が 990年から5年間、敦賀で修行したとされ、占いに使った祈念石が祀られています。
はいっ! 自転車で移動。 す〜い、すい。
こちらは笙の川。
正八幡神社
刑部たんが、信仰心がとっても厚いので、竜の彫り物や灯籠、鳥居を寄進したそうです。
来迎寺
敦賀城の中門だったそうです。
自転車で移動で、す〜い、すい。
やたっ! こちらが気比の松原です!!
…もう、跡とか石とか寺とか、…飽きちゃってさ…(遠い目)。
わ〜い、いい景色〜。
人気のない道、す〜いすい。
奥までいったら、戻ってきて、途中で松林を縫って敦賀浜へ。
「水、綺麗ッ!!!!」
すごー! すっげー! なんか海見て泣きそうになったw
そりゃ旨いよ、こんな綺麗な海で取れた魚はサ!!
…なんだろ、遺跡より、敦賀の海と、海の彼方にそびえる山々に、じんとくる。
…人間って、ちっちゃぇのな。城石が数個残っただの、墓石が…とか、…なんか切ない。。。
トンビが町中大量ですw でかいんだな、これが。
近くまで飛んでくるよ!
ちょっ! 真田さん宅の幸村さん、敦賀で肉屋開業っすかw
(真田○ートの看板が町の電柱のあちこちにあって、…ニヤニヤしてしまうw )
駅前は「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」の像であふれています。
みたら楽しいと思いますよ。
ってな感じで、一日目の敦賀散策は終了。
12時前よりレンタサイクルを借りて観光巡りをし、
敦賀駅前 → 気比神宮 → 金ヶ崎 → 各寺 → 気比の松原 → 敦賀駅前
15時半ごろ、自転車を返却。料金はレンタル4時間以内だったので500円でした。
ちなみに私はレンタル自転車は必須だと思います。車で行けないような隅々まで行けるし、徒歩では…だいぶキツいよ。
飲食店は駅前に集まっているので、宿泊される方は駅前の方がいいと思います。
二日目につづく
大阪港より自転車にて出発。
芦原橋→難波経由で天王寺に到着。所要1時間程。
14時過ぎに安居神社に到着。裏の階段鳥居より参る。
観光客少め、快晴後にわかに曇り。
真田幸村没碑を観て、裏手の松を見る。 ※2本有る
…どっちの松ですか? ?(・∀・)?
芦原橋→難波経由で天王寺に到着。所要1時間程。
14時過ぎに安居神社に到着。裏の階段鳥居より参る。
観光客少め、快晴後にわかに曇り。
真田幸村没碑を観て、裏手の松を見る。 ※2本有る
…どっちの松ですか? ?(・∀・)?
その後、『大坂夏の陣決戦地』の「四天王寺」へ移動。
安居神社よりすぐ。 紅葉が見頃。ここも客が少ない。
自転車を指定の場所に置いて、歩行にて散策。
だだっ広い平野より、密集して人数がある程度しか詰めかけられないここがよかったのかぁ…、と 思いをはせてみる。
いつも少数で大数を相手にせざるを得ない幸村さんの運命に(´・ω・`)。
15時の鐘が鳴り、四天王寺決戦場も観たので、一路、大阪城を目指す。
途中、パン屋に寄り道。 地下鉄谷町線筋を北へ、北へ。
真田山公園着。 ここも紅葉がえも言われぬ程、綺麗。
真田丸のあった場所か…、とまた思いをはせる。
また北へ北へ。
大阪城公園が見切れてきた頃、越中井へ。
ガラシャと細川忠興たんの住まいかぁ。ひとっこ一人居ず。虫多し。
そこでしばらく、ぼーっとコーヒーを飲む。 ┃・ω・)
大阪城着。
南口砲台後の石に腰掛け、持参おにぎりを食べる。
紅葉みごとなのでしばらく休憩。
その後、大手門より入り、秀頼自刃の石碑へ。 京橋門からぐるっと西回り、大手門付近まで返ってき、 中央線にそって帰宅。
安居神社よりすぐ。 紅葉が見頃。ここも客が少ない。
自転車を指定の場所に置いて、歩行にて散策。
だだっ広い平野より、密集して人数がある程度しか詰めかけられないここがよかったのかぁ…、と 思いをはせてみる。
いつも少数で大数を相手にせざるを得ない幸村さんの運命に(´・ω・`)。
15時の鐘が鳴り、四天王寺決戦場も観たので、一路、大阪城を目指す。
途中、パン屋に寄り道。 地下鉄谷町線筋を北へ、北へ。
真田山公園着。 ここも紅葉がえも言われぬ程、綺麗。
真田丸のあった場所か…、とまた思いをはせる。
また北へ北へ。
大阪城公園が見切れてきた頃、越中井へ。
ガラシャと細川忠興たんの住まいかぁ。ひとっこ一人居ず。虫多し。
そこでしばらく、ぼーっとコーヒーを飲む。 ┃・ω・)
大阪城着。
南口砲台後の石に腰掛け、持参おにぎりを食べる。
紅葉みごとなのでしばらく休憩。
その後、大手門より入り、秀頼自刃の石碑へ。 京橋門からぐるっと西回り、大手門付近まで返ってき、 中央線にそって帰宅。
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