10月22日…、
前々よりこの日は予定が入っていたんですが、いろいろありまして前日の夜に急遽空きました。
でもって日付も当日に変わろうかという頃、やおら準備をはじめまして、敦賀へ行ってきました。
もちろん目的はおおたによしつぐ関連の講演会第二弾です。
使用したきっぷは先日と同じく秋の関西1デイパス(2900円)です。区間限定ですが乗り放題!
前々よりこの日は予定が入っていたんですが、いろいろありまして前日の夜に急遽空きました。
でもって日付も当日に変わろうかという頃、やおら準備をはじめまして、敦賀へ行ってきました。
もちろん目的はおおたによしつぐ関連の講演会第二弾です。
使用したきっぷは先日と同じく秋の関西1デイパス(2900円)です。区間限定ですが乗り放題!
その講演会が朝の10時半から、
したがってどうしても早い電車に乗らなくてはならず、
朝7時、ラッシュでぎゅうぎゅうの便に乗ることに。
大阪 7:24発 → 近江塩津 9:34着(のりかえ)
近江塩津発 9:36発 → 敦賀 9:50着
大阪駅に着いたのが7時過ぎで、敦賀行きの乗換えなしの便が7:47発。
時間があるのでとりあえず7:24発の米原経由のに飛び乗ってみました…。
(結局到着は7:47発のと同じ到着時間なんだけどね…トホホ)
京都までは通勤通学の人がいっぱいでぎゅうぎゅう! 結局、彦根を越えるまでは混んでいました。
パインは運良く大津を過ぎたあたりで座れたんだけどね。ふぅ(;´Д`)
米原で車両切り離しのため移動して、やっと閑散としてきたので、
ここでコンビニで買った朝ご飯をとりだしてもぐもぐ…。
おからのお菓子らしいけど…激あまです! おから素材で一片99kcalあるってどんだけ砂糖ががが。


近江塩津駅に到着。乗換え時間は2分間!いそげ!
と、ここで仕事の電話ががが(;´Д`)
移動しながら応対あたふた。電車内で受けるよりはいいんだけどね。いやー焦った。
乗換えの電車は大阪7:47発の便でした…。oh!時間マジック!
いや…、彦根城みれた…し…。湖西線の方が30分ほど早いのよね。(´・ω・`)
なんやかんやで9:50に敦賀到着。

改札を出ていつもの売店に…と思ったところ、売店へ行く道が封鎖されており、
駅を出て東口の方に新しい待合所が新設されてました。どうしたんだ!敦賀駅!
新しい待合所はちょっと狭いです。前の1/3ぐらいの広さ。

その新しい売店でおにぎりチェック。前回のとろろおにぎりinしゃけがなかったので浮気をば。
マス&ぶりのおしずし(140円)。うまうま(・∀・)


10時近くになったので、講演会会場の図書館へ向かって移動開始。
移動の途中、前回お土産(へしこ)をかったお店です。
敦賀へ来たことある人ならみたことあるでしょう、きっと。
ここのへしこはサイズや種類がそろっていていいよ♪( ´∀`)

はい、図書館に到着。
こんな外観です。駅からは徒歩15分ぐらい。


前回は人が多かったけど、今回は少なかったです。平日&早朝だしね。
参加者はだいたい30〜40人ぐらいでした。
今回はまじめにメモを取りつつ、いざ!

おおたによしつぐ〜そのいきかた、にんげんせい〜
2010.10.22 講師 外岡慎一郎さん
内容はよしつぐの人物像にスポットを当てるということで。
まずは現在伝わっているよしつぐ評の考察から。
近年スポットが当てられだしたのが1990年ぐらいからで、歴史作家の吉川英治が取り上げたのが大きいのでは?ということ。
前回も書きましたが、よしつぐさん、プライベート情報がほとんど残っていません。
なので作家としては創作し甲斐があるというか、味付け甲斐があるというか、自由というか。
現実の資料などにはない「三成と友誼をはぐぐんだお茶会エピソード」も
この吉川英治がその話を書いているので、そこが元ネタではないか?との考察も。…ありえる(゜д゜)!
やはり情報の伝達という点では、人物研究にしても学者は資料がないと確定的なことは言えない。
逆に小説家などは自分の推察や創作などで言い切る部分がある。
結果、現代に人々に広く伝わっている情報は歴史作家の影響力が強かったりする。
学者ももっと想像力を加えつつ、強く出てった方がいいのかなぁ…と学者先生らしい悩みも聞けました。w
政権内でのよしつぐについて。
病気でいわばアウトローに位置したよしつぐが中央政権にそのままいたことは、時代を鑑みてもものすごい希有なことらしいです。
統治者としてのよしつぐについて。
敦賀という土地は秀吉以前は何もないただの漁村で、
関ヶ原以後は「敦賀藩」ともならず、別藩が兼任統治する扱いでした。
つまり敦賀が歴史上輝いたのは、流通システムの中継地として動いていたよしつぐ統治の間の20年間だけだそうです。
つづいてよしつぐの出自を巡ってのいろいろ。
まず父親がはっきりすれば遺伝的(家や系図的)な部分で分かってくるのになぁとのこと。
父親の説は3つ。
豊後説。大友宗麟の家臣ってやつですね。長い間これが通説でした。国史大辞典でもこちらを採用。
近江説。坂田郡(現:余呉町)の出身説。これは新説。本「大谷刑部のすべて」ではこちらを推しています。神社や地域の伝承が元ネタ。
青蓮院門跡坊官説。これは外岡さんが提唱している説。
どの説にしても元をたどれば在原業平になるそうですが。w ルートが違うらしい。
続いて母親の方。
こちらは東殿といって、秀吉の奥方ねね様の近従女房を務めてました。東殿は一説にはねねの母親の縁者だったとの伝承も。
よしつぐの妹。
コヤといって、東殿の子。下間頼亮の妻。
よしつぐの子。
大学助。1597年の秀吉が大谷邸に訪問した際、この大学助が病気のよしつぐの代わり、ホストとなったそうで。大坂夏の陣で戦死。子となっているが養子の可能性が高いそうです。(資料あり)
女。真田信繁の妻。竹林院。大坂夏の陣後拘束。
あとは確定的な資料はないけど、男子2人いるとの説も。
有能な官僚としての資料。
奥州検地。上杉景勝との共同作業で行った奥州検地。
この「検地」という言葉がくせ者で、小田原征伐に加わらなかった家の土地を没収に兵を引き連れて制圧して行くことをこの場合「検地」といいます。w
制圧した土地は測量をして年貢率を計算。
ここで問題なのが、秀吉は『上方(かみがた)の例でやるべし』と命令を下したこと。
上方の例=近江の税率を適用。
加えて『田畠検地、市屋民舎等まで点検し、兵器をあい改めるべし』
訳:検地プラス、民家の中まで調べて武器になりそうな物(刀、農耕具、牛馬)の数を細かくチェックすること
…。
この時代、東北や新潟は貧しい土地で、コメ収穫量が近江の1/3程度だったのだとか。でも秀吉の命令を守れば税率は近江と一緒。
現代のように米所といわれるようになるのは江戸時代の中期からだそうです。
富める近江と一緒にされてはかなわん!と民の暴動が起きます。
「(天正18年9月下旬)仙北の諸給人、百姓等、今度大谷吉継が邪政を憤り一揆を起こし、在々所々を放火す、益田、山田、川津良と云う古塁に二万四五千人の人数を催し籠城す、公(上杉景勝)も注進により、急に押寄せて〜略〜各軍門に降しければ、終に落城し、由利、仙北も御手に属す、大谷吉継此軍謀に感じける」
「(同年10月18日)公、大森城において大谷吉継を招き相議していわく、頃日川津良、山田、益田等の一揆の蜂起、想うに号令の軽き故なるべし、後日に至りても如何あるべし、然らば諸士、商客、百姓等まで差立てある者どもより証人(この場合人質)を出さすべし、吉継も同意し〜」
上杉家御年譜〜景勝年譜より〜
大谷吉継が邪政を憤り=上方の例(近江の税率適用)に地元住民が反発
号令の軽き故=民への武力介入が手ぬるいんじゃないの? by上杉
砕いていえば「検地」をした土地で不満が爆発。先行していた上杉軍家来衆と地元住民の間で小競り合いになります。
検地はストップ。そこに上杉景勝が現場視察に来るというから、よしつぐは「まって!今はこないで!」と伝えます。
なぜなら景勝がくるとなれば家来衆はメンツの為に泥沼になることは必死。暴走まで秒読み段階。
加えて直江に「三成にこの旨を報告して取り次いで!」とも伝えます。
三成に取り次ぐ理由。
それは当時秀吉の命令は絶対です。しかし秀吉は【地方におけるカスタマイズやマイナーチェンジ】ぐらいなら許していたのです。見て見ぬ振りという感じで。
つまり「上方の例」は守らねばならぬが、土地の特性に合わせて減税はできる。
それを三成と相談したいから……と直江に送ったのに、軍団来ちゃったよOTZ 直江ェェェェ!!!上杉家脳筋すぎ…
それを上杉家では「よしつぐって手ぬるいよね〜普通、武力弾圧だろJK」となっております。…。
武家の怖さがここでもよくわかりますね。(ある意味上杉家の怖さ?)
メンツ命。脳筋主義。がたがた言うヤツは弾圧でおk。
(;´Д`)
関ヶ原になった理由…なんか少しわかってきた。上杉ェ…
朝鮮出兵の逸話。
朝鮮出兵の時、明軍30万vs小早川ら2万状態の開城に立てこもり、武士の意地だと撤退せずに交戦をつづける小早川隆景、立花宗茂に対し、よしつぐは単身危険なそこへ乗り込み「一度撤退し、漢城にて先陣されてはどうか?」と提案し、なんとか説得成功した話。
これは武辺咄聞書(1680年編纂)、常山紀談(1739年成立)、及び、毛利家記、吉川家記、黒田長政記などにも同等の記載ありです。
これだけ出典元があるならこれは真実なんでしょう、とのこと。
このことで三成、増田など他の奉行衆と異なる後世の評判「義」や「友誼に厚い」人間味のあるアイデンティティが成立した可能性が。
いってみれば、頑固でDQNでめんどくさい性質を持つの武士達に、官僚側の人間が良く書かれるって…凄い。
そのことをふまえると、存命当時、性格が好かれたのか、見えない部分で便宜を図っていたのか、スタンスは武士側に立っていたのか…推測することもできます。はい。
ちなみに有名な【関ヶ原の戦いの時、三成を諌めた(お前が大将では無理だの話)】元ネタは常山紀談。
この書は江戸時代中期頃成立なので…クリエイトの部分も否めない。
けれど常山紀談もきっと何かを下地にしている訳で、当時も悪い人間としては伝わってなかったもようです。
地元住民との交流。
ほか、残った書状のなかでも、
西福寺の住職が病気で後継者問題で心配しているところへ、
「遺言通りになるよう援護する、敦賀にいい医者がいなければ京都の医師を紹介するから安心してね」と、
商人相手の贈答品に対する儀礼書状は社交辞令かもしれないけれど、
住民との間の書状にはこういうトップダウン一辺倒ではない交流もあったようで。
先の奥州検地も鑑みると、これら民へのスタンスでよしつぐの人物像が見えてくるよね?ということでした。
まとめ。
最後に関ヶ原の時点で、よしぐつは徳川家康と友好的であり、上杉征伐のときも徳川方につく予定だったことは確実だそうです。
それが佐和山に寄って、空白の数日があった後、三成方になります。
後世ではいろいろ計算があっただの、思惑があっただの言われてますが、
「よしぐつという人間を追っているうちに、愛情深く、領民への対応や周りの武士の評判から、その事は充分確認できる」
「関ヶ原はそれゆえ情に流され、損な方を選び、三成方についた、それでいいのでは?」と先生はおっしゃってました。
以上!
12時を少し回って終了です。
さぁお昼ご飯! だけど、敦賀の飯屋をあんまりしらない…。
ぶらぶら回りつつ、なかったら行きに写真を撮った海鮮問屋さんで食べよう!
…というわけで気比の松原に向けて、無計画にぶらぶら移動。
ちなみに今回は地図を持ってません。
潮の匂いと山の形で北方向(敦賀湾)を目測し、目指しています。(`・ω・´)キリッ
正八幡神社についた。ぶらぶら…



よしつぐさんが竜の彫り物や灯籠、鳥居を寄進した神社だそうです。
神社近くの用水路にはカニさんがいっぱい!

いっぱいいたけど、ピントを合わせているうちに石垣の隙間に逃げられた(;´Д`)
こんな町中までカニが闊歩してるのかぁ〜。
笙の川を渡る。


鳥だらけ。


ロォートロートロォート…♪
更にぶらぶら歩いてたら来迎寺(の裏墓地)に到着。



表門へ向かって境内を移動。この表門は敦賀城の中門だったらしいよ。
ここら辺の用水路には、今度は鯉がいっぱい!


自治体が推奨してるみたいです。>鯉(道沿いの看板に書いてあった)
この狭い範囲で20匹はいたね!(・∀・)
…ということで、気比の松原に到着。(*゚∀゚)=3

松並木を突っ切って、海辺へ移動。
砂浜にしゃがんで水をちゃぷちゃぷ。綺麗な小石を拾ってました。(自分への土産)


そうそう、この透明度! 綺麗な海だなぁ〜(*´∀`)人
さらにぼーっとするために、あっちの堤防へ移動。

新品の靴が塩水と砂まみれだよ☆(・∀・)
堤防の岩に座って海を眺める。堤防の先には釣り人が何人か。

水面の黒い部分は海藻ね。海藻って黒いなぁ〜。
海辺のぎりぎりまで小魚がくるがシャッター間に合わず(´・ω・`)
海岸にそった緑が松原ね。砂の遮蔽と風よけ対策だっけ?


海眺めてたら13時半、お腹すいた。(´・ω・`)
手元には飲みかけのコーヒー(ブラック)のみ。…よし、移動。
なんか琴線にふれる飲食店がなかったのな。(´・ω・`)やっぱ海鮮にいくか…
どーしてもお腹が空いたのでコンビニへ。サークルKにもとろろおにぎりが売ってました…


ちなみにファミリーマートにもとろろおにぎりがあったよ!敦賀ではメジャーおにぎり?
白とろろはサークルKの方が美味しいです。ふわっふわしてる!
なかにシャケ等クセのあるものの方が、とろろおにぎりは美味しいです。
淡白な具(梅など)はひたすら地味な味になる…。(´・ω・`)
博物館到着。

ここをみたら海鮮ランチにいくんだ…(´・ω・`)
(道順的に海鮮を先に回せなかった、もう体力も少ないし、無駄に歩きたくない為)
展示品は後半の分になっていましたが、前半の方が派手な印象でした。
前回で図録も手に入れてるのでほんとに雑な見方です。はい。(´・ω・`)
書状も図録に写真乗ってるならいいや、な人間なので。立体物やでかい美術品は空気感も含めてみるんだけどね。
帰り道に通った気比神宮。またこのアングルです。(^ω^)

時間は3時すぎ。ちなみに狙っていた海鮮ランチは終わっていました。 ←当たり前だ
休憩がてらサーティーワンなう。

マジカルミントナイトとファンタスティックアイランド。
はぁ〜うまうま!
足を休めた後はお土産をさがして、アルプラザ内をうろうろ。
結局、地元酒造のワンカップ酒にしました。
帰りの電車は16:23発なのでまだまだ時間がある。
お腹がすいたので、駅構内の立ち食い屋で月見とろろ蕎麦(390円)。敦賀名産おぼろ昆布入!


足が痛かったので立ち食いは辛かった(;´Д`)
そばは…小麦粉多めのそばうどんでした。うどんの方がよかったかな?
敦賀 16:23発 → 大阪 18:28着(湖西線)
帰りは湖西線経由で。
乗ってしばらくしたら、z...z...z...
お土産に(アルプラザで)買ってきた地元のお酒。


左:本醸造花垣 南部酒造場(福井県大野市) 度数14〜15 精米度数60% 180ml 195円
右:福寿杯 敦賀酒造(福井県敦賀市) 度数15〜16 180ml 225円
花垣はツンとくる感じの尖ったお酒でした。福寿杯はまろやかで美味しいよ♪ おすすめデス(・∀・)!
右の写真は姉が貰ってきた特上のお肉をユッケにしたもの(おつまみ) わーい豪華だ♪
海岸で拾った小石と切符。

大理石っぽいんだけど…だれか敦賀湾に大理石捨てた?
うろうろの記録。

お疲れさまでした。(・∀・)
したがってどうしても早い電車に乗らなくてはならず、
朝7時、ラッシュでぎゅうぎゅうの便に乗ることに。
大阪 7:24発 → 近江塩津 9:34着(のりかえ)
近江塩津発 9:36発 → 敦賀 9:50着
大阪駅に着いたのが7時過ぎで、敦賀行きの乗換えなしの便が7:47発。
時間があるのでとりあえず7:24発の米原経由のに飛び乗ってみました…。
(結局到着は7:47発のと同じ到着時間なんだけどね…トホホ)
京都までは通勤通学の人がいっぱいでぎゅうぎゅう! 結局、彦根を越えるまでは混んでいました。
パインは運良く大津を過ぎたあたりで座れたんだけどね。ふぅ(;´Д`)
米原で車両切り離しのため移動して、やっと閑散としてきたので、
ここでコンビニで買った朝ご飯をとりだしてもぐもぐ…。
おからのお菓子らしいけど…激あまです! おから素材で一片99kcalあるってどんだけ砂糖ががが。
近江塩津駅に到着。乗換え時間は2分間!いそげ!
と、ここで仕事の電話ががが(;´Д`)
移動しながら応対あたふた。電車内で受けるよりはいいんだけどね。いやー焦った。
乗換えの電車は大阪7:47発の便でした…。oh!時間マジック!
いや…、彦根城みれた…し…。湖西線の方が30分ほど早いのよね。(´・ω・`)
なんやかんやで9:50に敦賀到着。
改札を出ていつもの売店に…と思ったところ、売店へ行く道が封鎖されており、
駅を出て東口の方に新しい待合所が新設されてました。どうしたんだ!敦賀駅!
新しい待合所はちょっと狭いです。前の1/3ぐらいの広さ。
その新しい売店でおにぎりチェック。前回のとろろおにぎりinしゃけがなかったので浮気をば。
マス&ぶりのおしずし(140円)。うまうま(・∀・)
10時近くになったので、講演会会場の図書館へ向かって移動開始。
移動の途中、前回お土産(へしこ)をかったお店です。
敦賀へ来たことある人ならみたことあるでしょう、きっと。
ここのへしこはサイズや種類がそろっていていいよ♪( ´∀`)
はい、図書館に到着。
こんな外観です。駅からは徒歩15分ぐらい。
前回は人が多かったけど、今回は少なかったです。平日&早朝だしね。
参加者はだいたい30〜40人ぐらいでした。
今回はまじめにメモを取りつつ、いざ!
おおたによしつぐ〜そのいきかた、にんげんせい〜
2010.10.22 講師 外岡慎一郎さん
内容はよしつぐの人物像にスポットを当てるということで。
まずは現在伝わっているよしつぐ評の考察から。
近年スポットが当てられだしたのが1990年ぐらいからで、歴史作家の吉川英治が取り上げたのが大きいのでは?ということ。
前回も書きましたが、よしつぐさん、プライベート情報がほとんど残っていません。
なので作家としては創作し甲斐があるというか、味付け甲斐があるというか、自由というか。
現実の資料などにはない「三成と友誼をはぐぐんだお茶会エピソード」も
この吉川英治がその話を書いているので、そこが元ネタではないか?との考察も。…ありえる(゜д゜)!
やはり情報の伝達という点では、人物研究にしても学者は資料がないと確定的なことは言えない。
逆に小説家などは自分の推察や創作などで言い切る部分がある。
結果、現代に人々に広く伝わっている情報は歴史作家の影響力が強かったりする。
学者ももっと想像力を加えつつ、強く出てった方がいいのかなぁ…と学者先生らしい悩みも聞けました。w
政権内でのよしつぐについて。
病気でいわばアウトローに位置したよしつぐが中央政権にそのままいたことは、時代を鑑みてもものすごい希有なことらしいです。
統治者としてのよしつぐについて。
敦賀という土地は秀吉以前は何もないただの漁村で、
関ヶ原以後は「敦賀藩」ともならず、別藩が兼任統治する扱いでした。
つまり敦賀が歴史上輝いたのは、流通システムの中継地として動いていたよしつぐ統治の間の20年間だけだそうです。
つづいてよしつぐの出自を巡ってのいろいろ。
まず父親がはっきりすれば遺伝的(家や系図的)な部分で分かってくるのになぁとのこと。
父親の説は3つ。
豊後説。大友宗麟の家臣ってやつですね。長い間これが通説でした。国史大辞典でもこちらを採用。
近江説。坂田郡(現:余呉町)の出身説。これは新説。本「大谷刑部のすべて」ではこちらを推しています。神社や地域の伝承が元ネタ。
青蓮院門跡坊官説。これは外岡さんが提唱している説。
どの説にしても元をたどれば在原業平になるそうですが。w ルートが違うらしい。
続いて母親の方。
こちらは東殿といって、秀吉の奥方ねね様の近従女房を務めてました。東殿は一説にはねねの母親の縁者だったとの伝承も。
よしつぐの妹。
コヤといって、東殿の子。下間頼亮の妻。
よしつぐの子。
大学助。1597年の秀吉が大谷邸に訪問した際、この大学助が病気のよしつぐの代わり、ホストとなったそうで。大坂夏の陣で戦死。子となっているが養子の可能性が高いそうです。(資料あり)
女。真田信繁の妻。竹林院。大坂夏の陣後拘束。
あとは確定的な資料はないけど、男子2人いるとの説も。
有能な官僚としての資料。
奥州検地。上杉景勝との共同作業で行った奥州検地。
この「検地」という言葉がくせ者で、小田原征伐に加わらなかった家の土地を没収に兵を引き連れて制圧して行くことをこの場合「検地」といいます。w
制圧した土地は測量をして年貢率を計算。
ここで問題なのが、秀吉は『上方(かみがた)の例でやるべし』と命令を下したこと。
上方の例=近江の税率を適用。
加えて『田畠検地、市屋民舎等まで点検し、兵器をあい改めるべし』
訳:検地プラス、民家の中まで調べて武器になりそうな物(刀、農耕具、牛馬)の数を細かくチェックすること
…。
この時代、東北や新潟は貧しい土地で、コメ収穫量が近江の1/3程度だったのだとか。でも秀吉の命令を守れば税率は近江と一緒。
現代のように米所といわれるようになるのは江戸時代の中期からだそうです。
富める近江と一緒にされてはかなわん!と民の暴動が起きます。
「(天正18年9月下旬)仙北の諸給人、百姓等、今度大谷吉継が邪政を憤り一揆を起こし、在々所々を放火す、益田、山田、川津良と云う古塁に二万四五千人の人数を催し籠城す、公(上杉景勝)も注進により、急に押寄せて〜略〜各軍門に降しければ、終に落城し、由利、仙北も御手に属す、大谷吉継此軍謀に感じける」
「(同年10月18日)公、大森城において大谷吉継を招き相議していわく、頃日川津良、山田、益田等の一揆の蜂起、想うに号令の軽き故なるべし、後日に至りても如何あるべし、然らば諸士、商客、百姓等まで差立てある者どもより証人(この場合人質)を出さすべし、吉継も同意し〜」
上杉家御年譜〜景勝年譜より〜
大谷吉継が邪政を憤り=上方の例(近江の税率適用)に地元住民が反発
号令の軽き故=民への武力介入が手ぬるいんじゃないの? by上杉
砕いていえば「検地」をした土地で不満が爆発。先行していた上杉軍家来衆と地元住民の間で小競り合いになります。
検地はストップ。そこに上杉景勝が現場視察に来るというから、よしつぐは「まって!今はこないで!」と伝えます。
なぜなら景勝がくるとなれば家来衆はメンツの為に泥沼になることは必死。暴走まで秒読み段階。
加えて直江に「三成にこの旨を報告して取り次いで!」とも伝えます。
三成に取り次ぐ理由。
それは当時秀吉の命令は絶対です。しかし秀吉は【地方におけるカスタマイズやマイナーチェンジ】ぐらいなら許していたのです。見て見ぬ振りという感じで。
つまり「上方の例」は守らねばならぬが、土地の特性に合わせて減税はできる。
それを三成と相談したいから……と直江に送ったのに、軍団来ちゃったよOTZ 直江ェェェェ!!!
それを上杉家では「よしつぐって手ぬるいよね〜普通、武力弾圧だろJK」となっております。…。
武家の怖さがここでもよくわかりますね。(ある意味上杉家の怖さ?)
メンツ命。脳筋主義。がたがた言うヤツは弾圧でおk。
(;´Д`)
関ヶ原になった理由…なんか少しわかってきた。上杉ェ…
朝鮮出兵の逸話。
朝鮮出兵の時、明軍30万vs小早川ら2万状態の開城に立てこもり、武士の意地だと撤退せずに交戦をつづける小早川隆景、立花宗茂に対し、よしつぐは単身危険なそこへ乗り込み「一度撤退し、漢城にて先陣されてはどうか?」と提案し、なんとか説得成功した話。
これは武辺咄聞書(1680年編纂)、常山紀談(1739年成立)、及び、毛利家記、吉川家記、黒田長政記などにも同等の記載ありです。
これだけ出典元があるならこれは真実なんでしょう、とのこと。
このことで三成、増田など他の奉行衆と異なる後世の評判「義」や「友誼に厚い」人間味のあるアイデンティティが成立した可能性が。
いってみれば、頑固で
そのことをふまえると、存命当時、性格が好かれたのか、見えない部分で便宜を図っていたのか、スタンスは武士側に立っていたのか…推測することもできます。はい。
ちなみに有名な【関ヶ原の戦いの時、三成を諌めた(お前が大将では無理だの話)】元ネタは常山紀談。
この書は江戸時代中期頃成立なので…クリエイトの部分も否めない。
けれど常山紀談もきっと何かを下地にしている訳で、当時も悪い人間としては伝わってなかったもようです。
地元住民との交流。
ほか、残った書状のなかでも、
西福寺の住職が病気で後継者問題で心配しているところへ、
「遺言通りになるよう援護する、敦賀にいい医者がいなければ京都の医師を紹介するから安心してね」と、
商人相手の贈答品に対する儀礼書状は社交辞令かもしれないけれど、
住民との間の書状にはこういうトップダウン一辺倒ではない交流もあったようで。
先の奥州検地も鑑みると、これら民へのスタンスでよしつぐの人物像が見えてくるよね?ということでした。
まとめ。
最後に関ヶ原の時点で、よしぐつは徳川家康と友好的であり、上杉征伐のときも徳川方につく予定だったことは確実だそうです。
それが佐和山に寄って、空白の数日があった後、三成方になります。
後世ではいろいろ計算があっただの、思惑があっただの言われてますが、
「よしぐつという人間を追っているうちに、愛情深く、領民への対応や周りの武士の評判から、その事は充分確認できる」
「関ヶ原はそれゆえ情に流され、損な方を選び、三成方についた、それでいいのでは?」と先生はおっしゃってました。
以上!
12時を少し回って終了です。
さぁお昼ご飯! だけど、敦賀の飯屋をあんまりしらない…。
ぶらぶら回りつつ、なかったら行きに写真を撮った海鮮問屋さんで食べよう!
…というわけで気比の松原に向けて、無計画にぶらぶら移動。
ちなみに今回は地図を持ってません。
潮の匂いと山の形で北方向(敦賀湾)を目測し、目指しています。(`・ω・´)キリッ
正八幡神社についた。ぶらぶら…
よしつぐさんが竜の彫り物や灯籠、鳥居を寄進した神社だそうです。
神社近くの用水路にはカニさんがいっぱい!
いっぱいいたけど、ピントを合わせているうちに石垣の隙間に逃げられた(;´Д`)
こんな町中までカニが闊歩してるのかぁ〜。
笙の川を渡る。
鳥だらけ。
ロォートロートロォート…♪
更にぶらぶら歩いてたら来迎寺(の裏墓地)に到着。
表門へ向かって境内を移動。この表門は敦賀城の中門だったらしいよ。
ここら辺の用水路には、今度は鯉がいっぱい!
自治体が推奨してるみたいです。>鯉(道沿いの看板に書いてあった)
この狭い範囲で20匹はいたね!(・∀・)
…ということで、気比の松原に到着。(*゚∀゚)=3
松並木を突っ切って、海辺へ移動。
砂浜にしゃがんで水をちゃぷちゃぷ。綺麗な小石を拾ってました。(自分への土産)
そうそう、この透明度! 綺麗な海だなぁ〜(*´∀`)人
さらにぼーっとするために、あっちの堤防へ移動。
新品の靴が塩水と砂まみれだよ☆(・∀・)
堤防の岩に座って海を眺める。堤防の先には釣り人が何人か。
水面の黒い部分は海藻ね。海藻って黒いなぁ〜。
海辺のぎりぎりまで小魚がくるがシャッター間に合わず(´・ω・`)
海岸にそった緑が松原ね。砂の遮蔽と風よけ対策だっけ?
海眺めてたら13時半、お腹すいた。(´・ω・`)
手元には飲みかけのコーヒー(ブラック)のみ。…よし、移動。
なんか琴線にふれる飲食店がなかったのな。(´・ω・`)やっぱ海鮮にいくか…
どーしてもお腹が空いたのでコンビニへ。サークルKにもとろろおにぎりが売ってました…
ちなみにファミリーマートにもとろろおにぎりがあったよ!敦賀ではメジャーおにぎり?
白とろろはサークルKの方が美味しいです。ふわっふわしてる!
なかにシャケ等クセのあるものの方が、とろろおにぎりは美味しいです。
淡白な具(梅など)はひたすら地味な味になる…。(´・ω・`)
博物館到着。
ここをみたら海鮮ランチにいくんだ…(´・ω・`)
(道順的に海鮮を先に回せなかった、もう体力も少ないし、無駄に歩きたくない為)
展示品は後半の分になっていましたが、前半の方が派手な印象でした。
前回で図録も手に入れてるのでほんとに雑な見方です。はい。(´・ω・`)
書状も図録に写真乗ってるならいいや、な人間なので。立体物やでかい美術品は空気感も含めてみるんだけどね。
帰り道に通った気比神宮。またこのアングルです。(^ω^)
時間は3時すぎ。ちなみに狙っていた海鮮ランチは終わっていました。 ←当たり前だ
休憩がてらサーティーワンなう。
マジカルミントナイトとファンタスティックアイランド。
はぁ〜うまうま!
足を休めた後はお土産をさがして、アルプラザ内をうろうろ。
結局、地元酒造のワンカップ酒にしました。
帰りの電車は16:23発なのでまだまだ時間がある。
お腹がすいたので、駅構内の立ち食い屋で月見とろろ蕎麦(390円)。敦賀名産おぼろ昆布入!
足が痛かったので立ち食いは辛かった(;´Д`)
そばは…小麦粉多めのそばうどんでした。うどんの方がよかったかな?
敦賀 16:23発 → 大阪 18:28着(湖西線)
帰りは湖西線経由で。
乗ってしばらくしたら、z...z...z...
お土産に(アルプラザで)買ってきた地元のお酒。
左:本醸造花垣 南部酒造場(福井県大野市) 度数14〜15 精米度数60% 180ml 195円
右:福寿杯 敦賀酒造(福井県敦賀市) 度数15〜16 180ml 225円
花垣はツンとくる感じの尖ったお酒でした。福寿杯はまろやかで美味しいよ♪ おすすめデス(・∀・)!
右の写真は姉が貰ってきた特上のお肉をユッケにしたもの(おつまみ) わーい豪華だ♪
海岸で拾った小石と切符。
大理石っぽいんだけど…だれか敦賀湾に大理石捨てた?
うろうろの記録。
お疲れさまでした。(・∀・)
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