信長や幸村だけじゃない戦国時代に注目し出して、まだ2〜3年。
歴史サイトで各大名のエピソード(主におもしろ系)を漁ったり
(色々笑わせて貰ったサイト、戦國Xファイルはオススメ!【HP】)、本を読んだりして、ざっと大まかなことは頭に入ったつもり。
ふんふん、刑部伝承でメジャーなのは
「関ヶ原の戦い(主に戦中〜切腹まで)」プラス
「小早川呪い殺しの噂」エピ。ややマイナーでは
「千人切り事件」と
「三成とお茶会事件」エピだね。
んで、去年の冬に関ヶ原でフィールドワークもしてきて。
刑部の墓の裏をなんとなくみて、建てたのが明治時代で驚いた。(…建立は結構最近じゃん)
その近くにある石碑は昭和15年だった。
これは見た瞬間分かった。「あっ、WW2用の戦争賛美の為に建てたんだな…」という感じで。
書いてる内容も
『負けると分かってても工夫で相手に打撃を与えた』って強調してる時点で意図が…。
んで、最近やり直した流行り神2のシナリオ。
タイトルそのまま「流行り神」についての推察。流行り神とは、一時だけ人々にもてはやされ信心され、短期的に捨てられ忘れられていく神のことらしい。
そして「都市伝説」とは、その時代に潜在する人々の無意識の不満や恐怖心が「都市伝説」を介して表面化してくるものなのだと。
ここで各種材料が揃い、(あっ!)と思った。「刑部」は「流行り神」だったのでは、と。
そう考えると、じゃぁ何に利用され、もてはやされたのか。
…時期的・ポジション的に幕末の倒幕組がしっくりくる。(明治政府を作ろうとした人達の方ね
もっと簡潔に言えば、アンチ徳川ユニットがご利用したんでは?と予想。
人口に膾炙する噂や物語には、大きな権力や意思が関わっていることが少なくないと思うのです。
家康が幸村を最後に褒めた→いわば公認の話題化→禁止されなかったので語り継がれ、時間の忘却性に耐えた→現代でも普及している…という罠
(´-`).。oO(家康もこれからは文官の時代になると思ってたから、幸村を武官の代表として賞賛推奨したんだろな。そうじゃないと武官の不満が溜まって豊臣家の二の舞になるもん)
明治を押し立てた人達には、倒幕しても、それで民衆の心がコロッと切り替わる訳でもないし。
徳川時代を引きずらないためには、啓蒙活動が必要。
刑部信仰(?)はその一環だったのでは?と、想像。
だって一般に普及されてるのは「vs徳川家」関連のエピが主で、
秀吉存命中の、いわばこっちがメインだろ!な現役時代の話はほとんど聞かないんだもん。
誰が、何の意図で、こういう流れを作り出したのか。
形式や行為には理由がある。
でも時間の経過で理由は忘れ去られ、形式や行為のカタチだけが残るから、歪になっていってしまう…。
なんだか、すっきり。ヽ(*´∀`)ノ
とりあえず「刑部の墓裏」と「巷の普及内容」を関連づけて理論だてることができたので、こんな感じで〆。