2010.10.09
敦賀市立博物館特別展記念講演(漢字多っ!)「おおたによしつぐとそのじだい」に行ってきました。
多分、後日写真付きレポをあげるので、速報はさらっと簡易版で。
敦賀市立博物館特別展記念講演(漢字多っ!)「おおたによしつぐとそのじだい」に行ってきました。
多分、後日写真付きレポをあげるので、速報はさらっと簡易版で。
開演時間は14時〜16時。まず会場ですが満員でした。地元のご高齢の方が多し。
講師は外岡慎一郎さんでよしつぐ研究の第一人者で、研究を始めて今年で十年目なんだとか。…意外と浅っ!
よしつぐ研究はここ最近まで研究者の目の向かない、余り人気のないジャンルらしかったそうです。
講演は当時の敦賀の状況と、検地方法、治世方法などがメインでした。
その中で、何度も何度もいわれていたのが、この人はプライベート資料が残ってない!と。
公の文書ならぽつぽつ残っているのですが、公の文書は個性が乗ってこない。いわゆる形式的。
特に豊臣政権の治世方法は中央集権、中央のルールでどの藩も守らなければならない。つまりフランチャイズ形式。
だから余計に公ものには個性が乗ってこない時代だったそうです。
敦賀城も今までは単なる想像の代物だったそうで、つい先日、敦賀城の遺構が見つかり、
ようやく現実にあった物と確認されたそうです。
どんだけー^q^
京都復興や大坂城、伏見城築城など莫大な公共事業をする上で、材木の流通を一手に引き受けていたのが敦賀で、
その動いたお金、物量、お抱え商人をまとめる都市、朝鮮出兵兵站用船問屋の確保など、
敦賀の町が政権に与える影響力はあったようです。
そういう「戦国期の敦賀の町」がメインだった講演で、
その後自由参加で行われた懇親会では、1時間ほど先生を囲んでディスカッションがありました。
お菓子がでたのよー、コーヒーもでたのよー♪(*゚∀゚)=3
こういう事に遠慮のないパインは、もぐもぐごくごくしながら、話を聞く!
出た内容は、永賞寺の供養塔について、よしつぐの父親について、家紋について、朝鮮鐘について、敦賀城について、関ヶ原の小早川陣営について、など。
Q 永賞寺の供養塔について毎年丁重に祀っているが、最近住職さんが亡くなりよく知る人ががが。よしつぐの供養塔でない可能性はあるのか?
A 裏書きが「預修源朝臣」となっていてこの「預修」とは生前供養こと。考え方によっては1609年となってるからにはよしつぐのモノだと考えにくい。しかし寺側はよしつぐの供養塔と伝えている。確固とした資料がない今、それを信じている人もいるので肯定もしにくいが、あえて否定する必要もないんじゃね? もにょもにょ…
Q よしつぐの父親について
A まだよくわかっていない
Q 朝鮮鐘について、あれは本当に朝鮮出兵の時にとってきたものか?
A 最初は出自不明の鐘だったのが、時代が下がっていわれがつくようになった。日本にそういういわれのある鐘が30強あるが、韓国が出している紛失した鐘の数は一桁で数字が合わない…。最近韓国から「奪った物を返せ」と請求があり、徐々に奪い返されている。韓国側も李氏朝鮮変動期に廃仏毀釈をして寺や鐘を沢山壊しており、その時伝わったのかもしれない もにょもにょ…
Q 家紋について公機関で使用されているのは「丸に違い鷹の羽」だが、最近は他の大谷一族と違いをつけるためよしつぐが「つがい蝶」紋を作ったといういわれがあるが本当か?
A そういう資料はないので、よくわからない。
ちなみにメジャーエピソードである「三成と友誼を交わしたのはお茶会で自分の鼻水が入った茶をのんだから」という話がまかり通っているが、そういう資料はまったくない。ネット上には宗湛日記に載っていると言われているらしいが、宗湛日記内にそういう記述はない。
とまぁ、こんな感じでなごやかな茶話会でした。(*゚∀゚)
最後に敗残の将でも資料が残る人は残る。
この人のプライベート資料のなさは徹底的、ということでした。
学者さんは資料を見て、読み解いて、真偽や情報を読み解くのね。
その資料自体がないのだから、嘘とも言えないし、本当ともいえない…。
既存のデータは学者さんがさんざ読み取っているだろうし、あとは新資料がでてくるか、発掘で手がかりがでてくるかしないと、やっぱり謎の人。
「探したってむだだよ〜(・∀・)ニヤニヤニヤ」という刑部の声が聞こえてきそうですw
沢山あったハズの証拠をここまで徹底的に消すという事自体、刑部の能力やマメな性格など見えてきそうな気もしますが。
講師は外岡慎一郎さんでよしつぐ研究の第一人者で、研究を始めて今年で十年目なんだとか。…意外と浅っ!
よしつぐ研究はここ最近まで研究者の目の向かない、余り人気のないジャンルらしかったそうです。
講演は当時の敦賀の状況と、検地方法、治世方法などがメインでした。
その中で、何度も何度もいわれていたのが、この人はプライベート資料が残ってない!と。
公の文書ならぽつぽつ残っているのですが、公の文書は個性が乗ってこない。いわゆる形式的。
特に豊臣政権の治世方法は中央集権、中央のルールでどの藩も守らなければならない。つまりフランチャイズ形式。
だから余計に公ものには個性が乗ってこない時代だったそうです。
敦賀城も今までは単なる想像の代物だったそうで、つい先日、敦賀城の遺構が見つかり、
ようやく現実にあった物と確認されたそうです。
どんだけー^q^
京都復興や大坂城、伏見城築城など莫大な公共事業をする上で、材木の流通を一手に引き受けていたのが敦賀で、
その動いたお金、物量、お抱え商人をまとめる都市、朝鮮出兵兵站用船問屋の確保など、
敦賀の町が政権に与える影響力はあったようです。
そういう「戦国期の敦賀の町」がメインだった講演で、
その後自由参加で行われた懇親会では、1時間ほど先生を囲んでディスカッションがありました。
お菓子がでたのよー、コーヒーもでたのよー♪(*゚∀゚)=3
こういう事に遠慮のないパインは、もぐもぐごくごくしながら、話を聞く!
出た内容は、永賞寺の供養塔について、よしつぐの父親について、家紋について、朝鮮鐘について、敦賀城について、関ヶ原の小早川陣営について、など。
Q 永賞寺の供養塔について毎年丁重に祀っているが、最近住職さんが亡くなりよく知る人ががが。よしつぐの供養塔でない可能性はあるのか?
A 裏書きが「預修源朝臣」となっていてこの「預修」とは生前供養こと。考え方によっては1609年となってるからにはよしつぐのモノだと考えにくい。しかし寺側はよしつぐの供養塔と伝えている。確固とした資料がない今、それを信じている人もいるので
Q よしつぐの父親について
A まだよくわかっていない
Q 朝鮮鐘について、あれは本当に朝鮮出兵の時にとってきたものか?
A 最初は出自不明の鐘だったのが、時代が下がっていわれがつくようになった。日本にそういういわれのある鐘が30強あるが、韓国が出している紛失した鐘の数は一桁で数字が合わない…。最近韓国から「奪った物を返せ」と請求があり、徐々に奪い返されている。韓国側も李氏朝鮮変動期に廃仏毀釈をして寺や鐘を沢山壊しており、その時
Q 家紋について公機関で使用されているのは「丸に違い鷹の羽」だが、最近は他の大谷一族と違いをつけるためよしつぐが「つがい蝶」紋を作ったといういわれがあるが本当か?
A そういう資料はないので、よくわからない。
ちなみにメジャーエピソードである「三成と友誼を交わしたのはお茶会で自分の鼻水が入った茶をのんだから」という話がまかり通っているが、そういう資料はまったくない。ネット上には宗湛日記に載っていると言われているらしいが、宗湛日記内にそういう記述はない。
とまぁ、こんな感じでなごやかな茶話会でした。(*゚∀゚)
最後に敗残の将でも資料が残る人は残る。
この人のプライベート資料のなさは徹底的、ということでした。
学者さんは資料を見て、読み解いて、真偽や情報を読み解くのね。
その資料自体がないのだから、嘘とも言えないし、本当ともいえない…。
既存のデータは学者さんがさんざ読み取っているだろうし、あとは新資料がでてくるか、発掘で手がかりがでてくるかしないと、やっぱり謎の人。
「探したってむだだよ〜(・∀・)ニヤニヤニヤ」という刑部の声が聞こえてきそうですw
沢山あったハズの証拠をここまで徹底的に消すという事自体、刑部の能力やマメな性格など見えてきそうな気もしますが。
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